新感染症拡大蔓延で、世界が混乱している。そんな中でも、表層の裏でさまざまな事象が現れている。自然現象ではなく、意図的な意思を持った主体が行動しているのだ。日本国でも確かにそれが見られる。改憲案や種苗法のこともこの機会に内閣から出される。私はけして視線の方向を限定させてはいけないと自ら肝に命じている。この記事のことは、けして対岸のことではない。じつはひしひしと日本の中に蔓延していることだ。内閣が政府に対する批判を情報収集しAIを活用して対応するという。それに25億円の予算が計上された。ささやかでも発言する必要はある。「物言わぬは腹ふくるるわざなり」
2020年4月29日水曜日
2020年4月13日月曜日
2020年1月1日水曜日
コンテンポラリーダンスというもの
勅使川原三郎・佐藤利穂子
ダンス公演
『忘れっぽい天使
ポール・クレーの手』
シアターXでの公演、もう何度勅使川原のダンスを見ているだろうか、数えたらきりがない。
最初に勅使川原というダンサーを知ったのは、勅使川原がまだ髪を剃っていないとき、宮田圭がいたころだ。ダンス以前に舞踏という表現に興味を持っていたが、その流れでコンテンポラリーダンスについて知るようになった。ある放送局の公演記録が放送されていたことがあった。それは日夏耿之介の『夜の思想』という作品を元に創作したダンスだったと記憶している。88年のことだったようだ。転んだり立ち上がったり転んだり立ち上がったりするダンスだった。わたしにとってダンスという表現よりも、山海塾と大野一雄の踊りから身体表現というものに興味があった。つまり暗黒舞踏だ。土方巽の著作や、記録からballetというものから離れた、もうひとつの身体表現であった。それは西欧の芸術表現ではなく、アジアの土着的でそれぞれの民族の日常を元にした踊りの根源に向かうものだった。
勅使川原の表現は、わたしの暗黒趣味と平行して理解してきたものであった。それにしても、そのモダンな様式は、洗練されたアートのひとつであった。最近の舞台は、シンプルであり、照明もそれほど斬新なものではない。以前は、といってもだいぶ前になるが、山口小夜子が参加していたときには、背中に鉄板を仕込んで電動ヤスリで火花を散らすなどの趣向があり、「物語る」部分も多くあった。またサックスとの共演や、ガラス片が敷き詰められたステージだったりしたこともあった。最近は、勅使川原と佐藤のふたりの舞台が多いように思われる。そして余計なものはできるだけ削ぎ落としているようにも思える。しぜんと身体の動きが闇から浮き上がってくる。
身体表現にはさまざまなものがあるが、ダンスという範疇に属すものは踊り手の持つ関節の可動域を駆使した組み合わせによる積分であり、それが表現になって行く。balletのように、物語る対象がある場合には、忠実に法則を厳守することが最低条件となるだろう。しかしどのようなダンスであっても、個の鍛えられた関節の可動域であっても、おのずから肉体という限界からとき離れることはない。近年の勅使川原のダンスは、物語ることよりも、身体の特性と限界からどのように解放されるか、ということに向かっているような気がする。もちろんフィジカルな側面ではそのようなことはありえない。それぞれの踊り手によってその個性的なものが表出してくると思うが、その個性というものも先に触れた身体的な限界がある。その領域の中での積分だとは思うが、そのことにどのような意識で向かうかということがひとつの視点を示すことになる。最近の勅使川原のダンスに、解放と限界、限界と解放のあくなき作業を感じているのだが、もちろんこれは勝手な見方であることは承知のうえ。しかし、わたしの勝手な思考がどこかで自分自身の問題を解くことのkeyになると信じている。
2019年9月23日月曜日
9月の映画狂No.9
人生をしまう時間(とき)
監督:下村 幸子 2019年 日本
NHKエンタープライズ下村幸子のドキュメンタリー作品。BS1で放映されたのが評判となり、映画作品として再編集された。埼玉の新座市にある堀ノ内病院のふたりの医師と看護師、そして患者さんの記録である。
それぞれの事情を抱え、最後を自宅で迎える。在宅医療とは、ターミナルケアとは、死とは、家族とは。病院ではなくどうして自宅なのか、これはさまざまにいろんな条件や事情や制度など複雑に絡んでいるように思う。私の中学高校の同級生も四十代で他界したが、自宅で最後を迎えた。彼の人生はけっこう苦労が多かったと思う。ここに登場する患者さんと医師たちの心の交流は極めて人間的な温かみに溢れていた。全盲の娘に看取られて静かに去って行く父親。最後のとき小堀医師(80歳)はその場から離れる。家族だけの共有の場所と時間を邪魔してはならないという思いなのだろう。医療現場ではほとんどそのようなことはない。死亡時刻はしっかりと医者が確認しなければならず、不可逆的状況なのに最後の手立てをしようとする。個人的な体験であるが、40年ぐらい以前父親が57歳で世を去ったが、病院での最後は母親以外はみな病室を追い出されてしまった。20代だった私は、いいようのない不条理を感じた。しかし、いまもって基本は変化していない。医師としての常識を逸脱する小堀医師の行動は極めて人間的であった。
52歳の余命いくばくもない娘と暮らす70代の母。そこに静かに寄り添う堀越医師(58歳)がいる。病状をごまかすことなく伝える。死の直前は終わりを迎える穏やかさともいえる表情を湛えていた。最期はみな穏やかである。
最期をむかえる人と家族には、言葉が必要だ。むしろ言葉しか必要ではないのかもしれない。「はじめに言葉あり、言葉は神と共にあり、言葉は神なりき」という私が若いころ接した言葉を思い出す、聖書ヨハネの福音書である。医師の到達点は言葉なのかもしれない。もちろん聴力が不自由なひとは手が言葉だろうと思う。
堀越医師も小堀医師も外科医だった。すこし乱暴かもしれないが、外科医には言葉はいらない。素早い判断と完璧な手術の能力が必要とされる。堀越医師は国際医療センターの職員として、開発途上国をまわり活動してきた。マザーテレサの「死を待つ人の家」を訪れたときに感じたことを考え続け、自分の不得意な終末期に向かい合う場に居ようと決断した。小堀医院は、東大病院などで外科医を務め定年を迎えた。そしていままでの自分は職人的なところに走り過ぎた、これが反省だ。と言っていた。そしていまは堀ノ内病院に身を置く。小堀鷗一郎80歳、母親は小堀杏奴、明治の文豪であり軍医総監森鷗外の娘である。
上映終了後の舞台挨拶で小堀医師が語る。この患者さんはすばらしい人だ、業績があるわけでも勲章をもらっている人でもない。しかし豊かな物語をもっている人だ、と。
堀越洋一医師 小堀鷗一郎医師 下村幸子監督
9月の映画狂No.8
人間失格
監督:蜷川実花 2019 日本
この作品の感想を書くつもりはなかった。それと、特に観たいという欲求もあまりなかったのだが、藤原竜也が坂口安吾を高良健吾が三島由紀夫を演じている予告編を観て、一応文学分野畑であるので確認しようと近場の上映館に行った。
蜷川の写真や映像作品を完全に理解しているわけではなく、どちらかというと感性が合わないと思っていたが、今回においても同じだった。どうしてこんなにも蜷川が注目され、評価を受けているのだろうか。それともそれを理解できない私自身に問題があるのだろうか、なんとも判断できない。写真も映像もどぎつい原色が目を指す。原色どころか、蛍光色と言ってもいいかもしれない。フィジカルに視覚上直接的に網膜に訴えかけてくる。そこに何かしらの実験性や裏切りという策略があるとも思えない。映像的には鈴木清順に近いとも思える。ただ鈴木清順の徹底した策略に支えられた邪悪な感じは私自身には感じられなかった。短い場面が次から次へとカット割りのように差し込んでくる。映像作品として蜷川の独創性があるのだろうか、深層の奥に深まってゆく物語性を追求する作家ではなく、あくまでも映像の表層を表現する作家だと思うので、そこが勝負だろうと思う。坂口安吾の言葉や、バールパンの様子などには興味惹かれるが、太宰という存在そのものに迫ってゆくということが目的ではない。3人の女性たちの深層に迫るというわけでもない。そうであるならば、もっと感情の抑制と激流が交互に紡ぎ出されていいのではないかと思う。太宰治を素材としたアーティストのプロモーションビデオならば映像として理解できる。120分の物語作品としては、私の理解領域から外れてしまう。
まあ、市井の老人の戯言であるのでご容赦いただきたい。
9月の映画狂No.7
今さら言えない小さな秘密
原題:RAOUL TABURIN
監督:ピエール・ゴドー 2018年フランス
楽しい作品。ジャン=ジャック・サンペ(作家・イラストレーター・漫画家)の絵本が原作。脚本は『アメリ』のギヨーム・ローランが関わっている。楽しい作品ではあるが、楽しいだけではなく、少し切ない。しかし主人公ラウルにとっては少しどころか、人生最大の苦痛なのだ。個人にとっては最大級の問題だが、他にとってはなんということもない小さなこと、そこがユーモアの源泉なのかもしれない。20代後半のころギリシャ美術史家の故前田正明先生から話を伺ったことがある「一般庶民の悲劇はコメディであり、王侯貴族の悲劇がトラジディだ」と。90分のなかで、ほんの一言であったが未だに忘れることができない話だった。この作品を観たときそのことが思い起こされた。
南フランスのとある村、ラウル・タビュラン(ブノワ・ボールヴェールド)は評判のいい自転屋さんだ。あっという間に不具合を直し、村人は自転車のことをタビュランと呼ぶようになった。美しい妻(スザンヌ・クレマン)と、ふたりの子供に恵まれ、穏やかな村の人々に囲まれた温和なおじさん。しかし彼は自転車に乗れなかったのだ。これが彼にとって生涯守るべき秘密だったのだ。誰も知らない真実。何かに理由をつけて自転車に乗らないようにしていたのだが、有名な写真家が村に現れ、彼を取材したいと言い出した。この窮地をどうしたら逃れることができるのか、策略が空回りし続ける。
私などは、自転車に乗れないぐらいなんでもなかろう、と思うのだったが。作者サンペは幼少の頃から、貧しい生活を支えるための道具として自転車は必需のものだった。しかし思えば、洋の東西を問わず、昔の自転車は仕事で使うものだった。古いイタリア映画でも粗末な自転車はよく出てくる。中国映画にだって出てくる。しかし現在はピチピチのサイクルジャージに身を包み、高級なロードレーサーをかっ飛ばしている中高年のなんと多いことか。フランスはましてトゥール・ド・フランスの聖地ではあるまいか。フランス人は自転車に特別な思い入れがあるのだろうか。余計な方向にずれてしまったが、小さな秘密が劣等感となることは多いが、誰もがそんなことを抱えているのではないか、いっそ言ってみたら心が軽くなり、みんながほっとするのかもしれない。
面白く楽しい作品のなかに、とても大切なことがこっそり隠されているような、良質の作品であった。
ひとこと、邦題がまたまた客よせ意識。「ラウル・タビュラン」という個人名がいいのだ。これは個人の問題が複数の他、つまり世間と言い換えてもいいかもしれないが、その評価の意味を考えさせられていると思うのだ。
楽しい作品。ジャン=ジャック・サンペ(作家・イラストレーター・漫画家)の絵本が原作。脚本は『アメリ』のギヨーム・ローランが関わっている。楽しい作品ではあるが、楽しいだけではなく、少し切ない。しかし主人公ラウルにとっては少しどころか、人生最大の苦痛なのだ。個人にとっては最大級の問題だが、他にとってはなんということもない小さなこと、そこがユーモアの源泉なのかもしれない。20代後半のころギリシャ美術史家の故前田正明先生から話を伺ったことがある「一般庶民の悲劇はコメディであり、王侯貴族の悲劇がトラジディだ」と。90分のなかで、ほんの一言であったが未だに忘れることができない話だった。この作品を観たときそのことが思い起こされた。
南フランスのとある村、ラウル・タビュラン(ブノワ・ボールヴェールド)は評判のいい自転屋さんだ。あっという間に不具合を直し、村人は自転車のことをタビュランと呼ぶようになった。美しい妻(スザンヌ・クレマン)と、ふたりの子供に恵まれ、穏やかな村の人々に囲まれた温和なおじさん。しかし彼は自転車に乗れなかったのだ。これが彼にとって生涯守るべき秘密だったのだ。誰も知らない真実。何かに理由をつけて自転車に乗らないようにしていたのだが、有名な写真家が村に現れ、彼を取材したいと言い出した。この窮地をどうしたら逃れることができるのか、策略が空回りし続ける。
私などは、自転車に乗れないぐらいなんでもなかろう、と思うのだったが。作者サンペは幼少の頃から、貧しい生活を支えるための道具として自転車は必需のものだった。しかし思えば、洋の東西を問わず、昔の自転車は仕事で使うものだった。古いイタリア映画でも粗末な自転車はよく出てくる。中国映画にだって出てくる。しかし現在はピチピチのサイクルジャージに身を包み、高級なロードレーサーをかっ飛ばしている中高年のなんと多いことか。フランスはましてトゥール・ド・フランスの聖地ではあるまいか。フランス人は自転車に特別な思い入れがあるのだろうか。余計な方向にずれてしまったが、小さな秘密が劣等感となることは多いが、誰もがそんなことを抱えているのではないか、いっそ言ってみたら心が軽くなり、みんながほっとするのかもしれない。
面白く楽しい作品のなかに、とても大切なことがこっそり隠されているような、良質の作品であった。
ひとこと、邦題がまたまた客よせ意識。「ラウル・タビュラン」という個人名がいいのだ。これは個人の問題が複数の他、つまり世間と言い換えてもいいかもしれないが、その評価の意味を考えさせられていると思うのだ。
2019年9月22日日曜日
9月の映画狂No.6
プライベート・ウォー
監督:マシュー・ハイネマン 2018 イギリス・アメリカ
監督は『カルテルランド』などの硬質な作品を発表しているマシュー・ハイネマン。世界の不条理に対して、彼のカメラは鋭い視点で切り込んでいる。日本用のフライヤーでひとつ気に入らないところがある。「挑む女は美しい」というキャッチコピーだ。この男目線の一言で作品を台無しにしてしまう。反省してほしいものだ。
われわれはこの作品をしっかりと受け止め、戦争や紛争の地域が確かにこの地上にあることを考えなければならない。ジャーナリスト、メリー・コルヴィンを知っているだろうか。恥ずかしながら私が初めて知ったのは『バハールの涙』という映像作品でその存在を知った。女性クルド人と戦場行動をともにする片目の女性ジャーナリストが、メリー・コルヴィンという人をモデルとしていたということだった。メリー・コルヴィンは、1956年生まれのアメリカ人。UPIのパリ支局長の後、イギリスのサンデー・タイムスに移籍し、海外記者として戦地を取材しつづける。スリランカ内戦で左目を失い、極度のPTSDに苦しむ。しかし彼女は戦場のありさまを取材し世界に発信するという自らの使命を優先する。彼女の最後の地はシリアだった。政府は反体制の砲撃で亡くなったと発表したが、カメラマンのポール・コンロイは政府軍のメディアセンターを狙った攻撃だったと証言。彼女はシリア政府の嘘を暴き、狙われていた。戦争に巻き込まれたのではなく、ターゲットにされていた。ものすごい人だ。このようなジャーナリストたちが存在するので、我々は世界の不条理を知ることができる。そして真実を追求することが、とりもなおさずこの世界を救う糸口になるに違いないと私は確信する。私の一歳下、そして56歳で命を落とした。感慨深いものがある。
メリー役にロザムンド・パイク。ポール役にジェイミー・ドーナン。
登録:
投稿 (Atom)










