2017年7月29日土曜日

遠藤利克 展(7.15-8.31)埼玉県立近代美術館

 遠藤利克展ー聖性の考古学ー

 遠藤利克という作家をいつごろから知るようになったのだろうか、具体的な作品を観てからという感じではない。たぶん、美術雑誌か何かでその写真を見て記憶に留めていたということから始まった。そのような意味としては、もの派の作家たちを知識として追認し、その延長としてこの作家を確認して行ったのだろうと思う。私の年代を考えると、それは確かなことだ。それにしても、私より5歳程度上の世代だとは思わなかった。もっと上の世代だと思っていた。
 我々は、言語活動を通してしか世界を認識することができない。文節を作り出し利用することによって、ひとまとまりの思惟を理解し、発信することができるようになった。そこから世界は始まった。もちろん人類としての「認識上の世界」であるという限定付きであるが、そこから考えると、遠藤の作品はきわめてプリミティブな印象を受けるし、神話的でもある。我々の作品理解の手立てのひとつに、既知のことを拠り所にして理解することがある。「これは昔見たことがある⚪️⚪️に似ている、だから作品の意味するものはその⚪️⚪️のようなものだろう。」と。これが我々の理解の手助けとなる。
 「船形」がある。昔、博物館のようなところで見たことがある琉球の「サバニ」あるいは青森の「舟ケ沢の丸木舟」みたいだ。古の人々の生活が垣間見える古代からの考古学的贈り物である。形が似ているということで、それとの関連性を考えてしまうのが人の習性であろうと思う。とすれば作家はそのことを承知で、あるいは巧みに利用して何かを表現することもある。原初の形をとどめている船は、根源的な何かを象徴しているのかもしれない。そして、焼くという行為の果てに生成される物。どこか神話的なことが色濃く現れている。陶器などを焼くという過程の問題ではなく、「焼く、燃やす」という行為が浮き彫りになる。だからこそ、作品名に「木・鉄・タール・火」と素材が記入される。この四つは等価に記入されているが、「火」のみが行為であり、他はあくまでも「素材」である。作家の意識無意識に関わらず、本質が現れている。だからこそ、焼く行為が記録ビデオとして会場に流されているのだ。そのビデオは、葬送的なイメージを喚起させる。いまでもそのようにして葬送の儀式を行っている地域はある。この葬送の儀式の先にあるものは魂の浄化と再生であろう。そのようなことを関連させてみると。この作家の作品は、「浄化と再生の神話から導き出された提示」と考える。きわめて身勝手な解釈であるかもしれないが、私なりの確信だ。

巨大な輪である。





 船の中に水が張ってある。吹き抜けの天井から、柱が釣り上げられている。背景に常設のジャコモ・マンズー「枢機卿」が置かれてあるのが何か象徴的でいい。







2017年7月28日金曜日

「記憶にありません」

田中角栄政権の時代「ロッキード事件」(昭和51年7月28日田中角栄逮捕)があった。国会の証人喚問で、小佐野賢治が「記憶にございません」と言い、他の証人たちものきなみ「記憶にございません」と言い始めた。
 それ以来、何も変わっていない。いまでも問題あるごとに、「記憶がない」と言う。いっそ、AI機能のウソ発見器を使えばどうかな。