2015年8月24日月曜日

お盆の弟

  『お盆の弟』      大崎 章 監督           2015年日本

 モノクロームの作品。モノクローム・夏・開襟シャツとあれば、どうも私の脳裏には小津安二郎の映像が浮かんでしまう。
 田舎に戻ってきているタカシ(渋川清彦)そこに兄マサル(光石研)いる。マサルは癌の手術をし人工肛門であり、タカシは妻から離縁状を叩きつけられた状態である。なんだか二人ともダメダメである。でも、このダメダメがいい。子供がいるタカシはどうも青春から抜け出せていない。マサルもなんだか誤解の恋愛をしているような感じで、しっかりしていない。普通の生活者としては、同情する部分がかなりあるが、この情けないふたりの日々の様子は、ほろ苦くそして滑稽である。普段の我々は、みんなそんなもの。いい作品であった。
                        (8月2日 『K'sシネマ』にて)

金山康喜ー絶対孤独の風景ー

 もういちど世田谷美術館で開催されている金山康喜の展覧会に行く。気になり、どうもこころに引っかかる作家である。『食前の祈り』(1950年)の目を閉じた人々と真っ黒な椅子が地平の先に遠ざかっていくような作品。部屋の中であるはずなのに、地平線のような堺がある。『聖ユーレリウスの器』(1949年)でも、テーブルの周りに黒い椅子が取り巻いており、遠くに消えてなくなろうとしている。背景はどれもブルーだ。主人が居ないイス。腰掛ける者のいないイス。永遠の不在を物語るような、孤独の極北。金山は永遠の孤独を抱え持って生きていたのかもしれない。そんな思いに駆られる。してみると、野見山暁治の作品もまた孤独感が溢れる。『落日』『室内の人』(1959年)どの作品も孤独感がある。これが二人を引きよせた要因かもしれない。
 フト思うのだが、金山の筆致にベン・シャーンと国吉康雄を感じる。

2015年8月22日土曜日

雪の轍

 雪の轍 

      英題:Wintre Sleep   は原題に忠実な訳。監督:ヌリ・ビルゲ・ジェイラン
                                  (トルコ) 

 全編3時間16分。第67回カンヌパルムドール大賞受賞作。トルコの静かなカッパドキア。夏は暑く、冬はマイナスを遥かに下回る。場面は晩秋から冬にかけての凍えるような季節を背景としている。いったん雪が降りだすと、車で坂を登ることもできなくなるようだ。作品の中で、しばしばそう語られる。
 親から資産を受け継ぎ、ホテルのオーナーとして生活している元俳優アイドゥン(ハルク・ビルギネル)は、地元新聞にコラムのようなものを書いている。いつも書斎のパソコンに向かってる。この男を中心にした物語。いや、物語といえるほどの物語性はない。滔々と流れる時間の中で、人々の内面が浮き彫りにされる。主人公のアイドゥンは、日本の高等遊民のような、あるいはロシアの没落貴族のような、なんとなくそんな雰囲気を醸し出している。かなりのインテリゲンチャなのだ。歳の離れた若い妻ニハル(メリサ・ソゼン)はその生活にどこか不満を感じている。張り合いのない生活の中、夫との議論も噛み合わない。自分自身の存在意義を感じようとボランティア活動にのめり込んでいる。そのホテルには、妹ネジラ(デメット・アクバァ)も離婚して戻ってきている。ネジラはアイドゥンの考えや記事を徹底的にこけおろしている。いつもアイドゥンの背後にあるソファーに寝そべって、批判を展開するが、アイドゥンは取り合わない。
 季節は冬に入り、雪が散らついたかと思うと翌朝は一気に深い雪景色となる。岩の中のホテルの客は、若い日本のカップルだけ。そして、何よりもこの作品に底流する重要なテーマは「貧富の差」である。上映直後、刺激的な場面に出会う。使用人ヒダーエット(アイベルク・ペクジャン)の運転するジープに同乗するアイドゥンのサイドガラスめがけて、石が投げられる。石は真っ直ぐに飛んでき、ガラスを破損させる。リアルなシーンだ。それを投げたのは、イリヤス(エミルハン・ドルックトゥタン)という少年。父親はアルドゥンから家を借りていて、支払いができず弁護士により家具が差し押さえたばかりだった。
 言葉とは何か。言葉によって我々の世界は成立し、言葉によって人々の関係性ばかりか、社会、国家の関係性が複雑化する。この作品に溢れる膨大な言葉の海。閉ざされた冬のカッパドキア。分厚い哲学書の頁を丁寧に捲り終えた気分になる。
                    (7月19日角川シネマ有楽町にて)

2015年8月21日金曜日

舟越保武 まなざしの向こうに ー練馬区立美術館ー

 7月12日〜9月6日の開催。日本の具象彫刻の代表的な作家である舟越保武の展覧会。亡くなって13年が経つ。もちろん舟越桂の父親である。でもみなさん、三男の舟越直木さんも美術家であることをお忘れなく。
 「ダミアン神父」「原の城」「長崎26殉教者記念像」はやはり代表作らしく、館内の空気を特別な次元に持ち上げているように思えた。この三作品に共通するのは、「物語性」ということにある。深い物語の主人公たちである。特に私の好きな作品は1971年制作の「原の城」である。名もない領民の姿であろうか、放心したような表情、あるいは深い悲しみの表情であろうか。言葉にならない言葉を絞りだそうとしているかのような口元、そして目は埴輪のようにぽっかりと穴が空いているだけ。何かを見ているわけでもなく、虚ろなまなざしのような、なんとも言えない空虚な目である。目がないので何も見ることができないのであろうか、あるいは目がないために人が見ることができない道理を見ているのだろうか。さまざまに受けとることができる。粗末な鎧を着た猫背の男、立っているのがやっとのような、存在感の希薄な立像。しかし、その存在感のなさが、圧倒的存在感となって我々を襲う。

2015年8月20日木曜日

金山康喜のパリー世田谷美術館ー

 2015年7月18日から9月6日まで開催の「金山康喜のパリー1950年代の日本人画家たち」の鑑賞のため世田谷美術館に行く。8月の猛暑は田園都市線用賀駅から歩くのにはかなり身体的に負担がかかる。住宅街には人工の小川があるが、涼むことができない。今夏の猛暑は記録的である。環状八号線を越えて砧公園に入って、ようやく太陽を避けることができた。
 金山康喜の画面の青は、そんな私を癒してくれた。洋の東西を問わず、さまざまな静物画を見てきたつもりであるが、この画家の「静物画」は、何か特別な感じがしてならなかった。それがなんなのか、まだわたしには解明できていない。もちろんそれぞれに好みがあるだろうが、この画家の作品は、私の心に深く入り込んでくる。33歳で夭折した画家である。

 1926(大正15・昭和元年)大阪市に生まれる。父親は貿易商だった。
 1943(昭和18)富山高校入学、美術部に所属する。
 1945(昭和20)東京帝国大学経済学部経済学科に入学。同年8月広島・長崎
           に原爆投下され、終戦。
 1948(昭和23)東京帝国大学卒業、大学院社会科学研究科に入学。猪熊弦一郎
           主催の「田園調布純粋美術研究所」に入る。ここに古茂田守介や
           田淵安一がいた。田淵は5歳上であるが、東京帝国大学の同級生
           である。同じ年に大学に入学し、同じ年に大学院に進む。田淵は
           文学部美術史学科。そして51年に金山とともに渡仏する。
 1951(昭和26)渡仏。同行者は田淵安一と関口俊吾。金山の目的は数理経済学
           の研究であった。数理経済学と言えば、宇沢弘文を思い出す。
           宇沢は1928年の生まれであるから、金山とは2歳しか違わな
           い。宇沢は2014年86歳で亡くなった。反戦平和主義の気骨
           のある学者だった。
 1952(昭和27)フランスのアンデパンダン展などに出品する。9月のソルボンヌ
           大学に入学する(田淵もソルボンに入学する)その後さまざま
           なところで作品を発表する。他方、フランス経済学者の書籍を翻
           訳し、白水社から出版する。
 1955(昭和30)ローヌ県のサナトリウムで肺の3分の1を切除。経済学ではな
           く、画家として生きることを決意
 1958(昭和33)父親の病気見舞いのため一時帰国。
 1959(昭和34)東京逓信病院に入院、6月16日急逝。遺品の整理は、藤田嗣
           治、野見山暁、日本大使館の佐々木三雄らが行った。作品の荷造
           りに鴨居玲が加わり、金山の静物画に魅了されたようであった。

 人と交わることをが苦手な金山の周りには、さまざまな人たちがいた。そしてこの展
覧会には、そんな人々のまとまった作品も目にすることができる。それは圧巻である。
藤田嗣治・佐野繁次郎・荻須高徳・猪熊弦一郎・佐藤渡・関口俊吾・古茂田守介・菅井汲・野見山暁治・田淵安一・岡本半三・今井俊満・堂本尚郎そうそうたるメンバーである。野見山暁治の細君がパリで亡くなったときの葬儀委員長が金山だった。野見山のエッセイ『四百字のデッサン』にこのような記述がある。

 「私がパリに着いて二日目、日本学生会館の暗い廊下を歩いて小柄な青年を、誰かが私に引き合わせた。あきらかに彼は迷惑そうだった。ー急ぎますのでー」
 「レストランでもサロンでも時折、私はカナヤマを見受けたが、彼は自分に話しかけようとする人間を認めると、ツイと席をたって足早にその場を去った。ー急ぎますのでー。いつも背後からだけ、カナヤマの小さな猫背の姿を私はまじまじと眺めた。」
 「カナヤマは自分が不幸になることについては信じられないほど、果敢な男だった。」

        とてもいい展覧会だった。少し熱中症気味で帰途に着いた。
 

2015年8月18日火曜日

暴政ー戦後70年談話ー

 8月13日の首相談話。「」内はママ。
 「100年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、ひろがって」いた。その「波」が「アジア」にも押し寄せ、日本もその「危機感」が「近代化の原動力となったことは、間違い」ない。植民地主義が日本の近代化を推し進めた、と読み取れる。つまり武器の進化とその利用は近代化にとっては必要なものなのだろうか。
 「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけ」た。日露戦争の勝利は小国日本が大国ロシアに勝利した。たしかにそうだろう。しかし、勇気づけて我々日本国は、アジアやアフリカを全面的に助けたのだろうか。アフリカに何か協力したのか、戦後には海外協力隊などが作られたが、その当時はどうだったのか。アジアに対しては、満州国を作ったり、創氏改名などを行ったり、これは侵略ではなかったのか。
 「欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進め」日本は「大きな打撃」を受けた。日本は「孤立」し、「力の行使によって解決しようと試み」た。「政治システムは、その歯止めたりえなかった。」
 ここまでは、まるで歴史の教科書を読むような内容だ。軍部と政治家の遊離を述べているのだろうか、であるならこの経験で、軍事力を抑えて、政治力で進まなければならないということであろう。そのことを言わなければならない。現代の日本国が、かつての行動をどのように評価し、今後どのように進まなければならないのか、この時点でのべなければならないように思う。
 満州事変の後、日本は「『新しい国際秩序」への『挑戦者』となっていった。」そして「戦争への道を進んで」行った。「挑戦者」とはなんだ。「挑戦者」とは困難なことに立ち向かう人のこと、「反逆者」ではなかったのだろうか。

「戦後70年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます。

先の大戦では、300万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、酷寒の、あるいは灼熱の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました。

戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。

何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。

これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。」

犠牲になった、犠牲になった、という語。誰が何をしたのか、アジアの人々が犠牲になった。誰のどのような行動によって犠牲になったのか、第二次世界大戦の犠牲者と言えば、責任の所在がわからない。「断腸の念」だけなのか、これは個人の思いの表現であって、国家元首の公的な言説でない。この部分は、感傷的な表現が多く、談話に長々と述べる意図は何か、悲しみの共有者であると言わんばかりの言、あなたのお爺ちゃんもあなたも、そのような辛酸を舐めてはいない。元首として言うなら、そのことの責任はどこにあったのかに触れなければならない。
 「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。」

 我が国日本はどのような態度をとり行動するのか、国外で武器を使用しないという宣言として理解していいのか、そうならば集団的自衛権と真っ向から反対する行動ではないのか。国外に出ることは、集団的自衛権では当然の行動。では武器を使用した場合は、なんという説明をするのか、予想としては『相手から攻撃されたので、自衛のための武器弾薬の使用である』というのだろう。でもこれは論理矛盾である。「植民地支配から永遠に決別」それはそうだろう、でも主語がない。漠然としている。

 「我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。」

 表明してきました。あなたはどうなのですか。

「中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。」

 残留孤児のひとたちは、中国の人々により自分の子としてちゃんと育てられてきた。現代中国の政治家はどうかわからないが、都市を離れた農民たちのなかに、このような深い思いやりの心を持った人々がいることに感謝しなければならない。

「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」

 国家として宿命を負わせたのです。ドイツでは負の遺産として後世に伝えているといいます。負の遺産として伝えなければ、誰かのようにまた軍備使用可能組織を国外に派遣しようとする無知蒙昧な無自覚な人を生み出してしまうのです。賢者は歴史に学ばなければいけません。

 「そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。

 私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。」

 力によって打開しようとした。そうです、帝国軍の戦闘行為です。これによると、集団的自衛権は行わないと理解していいのか。法の支配を尊重するというのは、憲法を勝手に解釈しないと理解していいのか。現政権と違うのではないか

 「私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。」

 主語がない。5W1Hをはっきりさせなければならないように思う。戦時下、具体的に場所は?多くの女性、どこの国の女性?誰が傷つけたの?国家元首として明確にしなければならない。歴史を振り返るということはそういうこと。


 安倍派の経済評論家などは、絶賛している。なぜか。軍事関係製品は日本にとって大きな経済成長を目指せるからだろう、おそらく。

 談話とは何か、天皇陛下の方が、しっかりした言葉で伝えている。

2015年8月12日水曜日

青虫

 庭の草刈りをしていた。ふっと気ずくと、青虫がTシャツにくっついていた。とりあえずほろっておいたのだが、ベランダから部屋に入ろうとしていたらコンクリートの上でのたうち回っていた青虫を発見。それは存在危機状態という感じであった。どうやら塗装したコンクリートの上は青虫にとっては地獄のようだ。わたしは、彼をつまんで庭の草に乗せてやった。するとどうだろう、彼はしっかりと草を掴み、くねくね動き回った。ここが青虫の生きる場所なのだ。人工的なツルツルした場所は生存圏内ではないのだ。
 我々はことほど作用に、人間の都合でさまざまな場所を作り出している。我々にとっていい場所が、他にとってはいい場所ではない。種の比率で言うと、我々の方がマイノリティーであるのかも知れない。ところで原発はなんだろう。