2015年7月18日から9月6日まで開催の「金山康喜のパリー1950年代の日本人画家たち」の鑑賞のため世田谷美術館に行く。8月の猛暑は田園都市線用賀駅から歩くのにはかなり身体的に負担がかかる。住宅街には人工の小川があるが、涼むことができない。今夏の猛暑は記録的である。環状八号線を越えて砧公園に入って、ようやく太陽を避けることができた。
金山康喜の画面の青は、そんな私を癒してくれた。洋の東西を問わず、さまざまな静物画を見てきたつもりであるが、この画家の「静物画」は、何か特別な感じがしてならなかった。それがなんなのか、まだわたしには解明できていない。もちろんそれぞれに好みがあるだろうが、この画家の作品は、私の心に深く入り込んでくる。33歳で夭折した画家である。
1926(大正15・昭和元年)大阪市に生まれる。父親は貿易商だった。
1943(昭和18)富山高校入学、美術部に所属する。
1945(昭和20)東京帝国大学経済学部経済学科に入学。同年8月広島・長崎
に原爆投下され、終戦。
1948(昭和23)東京帝国大学卒業、大学院社会科学研究科に入学。猪熊弦一郎
主催の「田園調布純粋美術研究所」に入る。ここに古茂田守介や
田淵安一がいた。田淵は5歳上であるが、東京帝国大学の同級生
である。同じ年に大学に入学し、同じ年に大学院に進む。田淵は
文学部美術史学科。そして51年に金山とともに渡仏する。
1951(昭和26)渡仏。同行者は田淵安一と関口俊吾。金山の目的は数理経済学
の研究であった。数理経済学と言えば、宇沢弘文を思い出す。
宇沢は1928年の生まれであるから、金山とは2歳しか違わな
い。宇沢は2014年86歳で亡くなった。反戦平和主義の気骨
のある学者だった。
1952(昭和27)フランスのアンデパンダン展などに出品する。9月のソルボンヌ
大学に入学する(田淵もソルボンに入学する)その後さまざま
なところで作品を発表する。他方、フランス経済学者の書籍を翻
訳し、白水社から出版する。
1955(昭和30)ローヌ県のサナトリウムで肺の3分の1を切除。経済学ではな
く、画家として生きることを決意
1958(昭和33)父親の病気見舞いのため一時帰国。
1959(昭和34)東京逓信病院に入院、6月16日急逝。遺品の整理は、藤田嗣
治、野見山暁、日本大使館の佐々木三雄らが行った。作品の荷造
りに鴨居玲が加わり、金山の静物画に魅了されたようであった。
人と交わることをが苦手な金山の周りには、さまざまな人たちがいた。そしてこの展
覧会には、そんな人々のまとまった作品も目にすることができる。それは圧巻である。
藤田嗣治・佐野繁次郎・荻須高徳・猪熊弦一郎・佐藤渡・関口俊吾・古茂田守介・菅井汲・野見山暁治・田淵安一・岡本半三・今井俊満・堂本尚郎そうそうたるメンバーである。野見山暁治の細君がパリで亡くなったときの葬儀委員長が金山だった。野見山のエッセイ『四百字のデッサン』にこのような記述がある。
「私がパリに着いて二日目、日本学生会館の暗い廊下を歩いて小柄な青年を、誰かが私に引き合わせた。あきらかに彼は迷惑そうだった。ー急ぎますのでー」
「レストランでもサロンでも時折、私はカナヤマを見受けたが、彼は自分に話しかけようとする人間を認めると、ツイと席をたって足早にその場を去った。ー急ぎますのでー。いつも背後からだけ、カナヤマの小さな猫背の姿を私はまじまじと眺めた。」
「カナヤマは自分が不幸になることについては信じられないほど、果敢な男だった。」
とてもいい展覧会だった。少し熱中症気味で帰途に着いた。