2020年9月6日日曜日

Kさんからの残雪



 残雪の『カッコウが鳴くあの一瞬』をKさんからいただいた。残雪(鄧小華)は中国現代作家である。表題を含む九つの短編集であるが、読む進めていると個人的には特段違和感を感じなかったものの、一般的に多数の読者を獲得する作家とは思えなかった。物語で読ませるものではなく、娯楽性があるわけでもない。ただ特定の読者にとっては、この作品の意味するところが痛切に理解することができるのかもしれない。そうでなければこれほどアバンギャルドに書き続けることはできないはずだ。そして、見逃してはならないことは作者の深層に深い闇が抱え込まれているかもしれないということだ。
 私には、物語の範疇でこの作品を捉えることができない。ではどう捉えるのかというと、『詩』という言葉がうかびあがってくる。それは「物語を拒絶した叙事詩」ということだ。設定はたしかにあるが、ストーリーではなく、場面が唐突に出現する。例えば、スライド写真を映している感覚だ。プロジェクターがカシャリカシャリと定まった時間を刻みながら静止画像を映し出してゆく。現在のテクノロジーならば、静止画像であれ耳障りのいい音響とともに、フェイドイン等々ストレスを感じさせないデザイン性豊富な方法がいくらでも可能だ。しかし、私の感覚では残雪の小説は、そのようなテクノロジーよりも身体感覚に近いスライド写真なのだ。その感覚が心地よい。リバーサルフィルムが時を刻み、送られて行き、全てはフラットで等価なものとして目の前に並べられてしまうことにより、重苦しい場面は不思議に浄化される。この恐ろしいほどの企ては、作者自身としても、微塵も考えていないだろう。
 語は文節を作り、文となり、段落を形成して、まとまりのある情報を伝える装置になる。しかし、そんなことにこだわらないところに詩そのものの存在がある。おそらくこの作品は、そのような意味や情報の定石にこだわらないで読んだ方がいい。
 
 気になったところをあげてみたい。

   「隣人はむこうの高塀の下で、あの穴を火かき棒でつついている。」
                     (『阿梅、ある太陽の日の愁い』)
   
   「彼らが外でわめきちらしながら、ガラスをつぎつぎに割りまくっている音が聞
   こえる。」             (『霧』)

   「彼が大きなハンマーをふりかざし、その鏡に打ちかかっていくのが見えた。」
                     (『雄牛』)

   「肺気腫にかかった者はみな、夜中によその家の戸をたたきたがるんだよ。」
                     (『カッコウが鳴くあの一瞬』)

   「ガラス板の上の文鎮が壊された」
                     (『曠野のなか』)

   「髪ふりみだして飛びこんできて、わたしの寝室をところかまわずひっかき
   まわし、鏡や湯のみをたたき壊してしまう。」
                     (『刺繍靴および袁四ばあさんの苦悩』)

   「ある人がある場所をひとりぼっちでさまよい、両手に握った小石を粉微塵に砕
   いているのが。」
                     (『天国の対話』)

   「深夜の寒風がひゅうひゅう吹くとき、ある扉を力いっぱいたたくと、」
                     (『素性の知れないふたり』)

   「わたしは鶴橋を探してめちゃめちゃに振りおろし」
                     (『毒蛇を飼う者』)

 これらのことが、とりたてて意味があるのかどうかは分からない。しかし、なぜか気になっている。残雪という現代作家を読んだのもはじめてであり、親和的読者でもないので、早急で無責任なことを言えないが、なにかありそうな気がしてならない。