2016年7月23日土曜日

縦書きの不滅

 ネットをはじめ、街を歩いていると、実に横書きが多いことに気づく。漢字文化圏の中国でも、新聞は横書きだ。石川九楊の『縦に書け!』という書物も、なるほどと理解はできても、グローバルスタンダードという巨魁的な何者かに駆逐されるだろうと思っていた。手書きから印字文字に移行する現在。もはや縦書きは消えてゆく運命にあるのか、と嘆いていた。
 そんなとき、私のPCの背後には書棚が設えてあるのだが、PC画面から目をそらすと、本の背表紙が目に入る。書棚に書物を縦に置くというのは、洋の東西を問わず共通しているはずだ。もちろん和綴じ本などは横置きにしなければならないのだが、昔の和綴じ本には背表紙はない。縦書きの日本文字が、なんのストレスも感じることなく、すんなりと読むことができる。横文字のものは、背表紙であったとしても、横書きだから横書きの文字であるとあらかじめ脳に指令を送らなければならない。横書きの背表紙はそれぞれ「書き下ろし」「書き上げ」があり、ネットを探ると、それに詳しい人のサイトが現れ、なるほど自分と同じようなことを考えている人はいる。
 本の背表紙がある限り、縦書きは非常に便利で見やすいものである。とすると、日本語の国では、縦書きが失われることはないと確信することができる。また、海外の横文字文化圏の道路脇の看板に、ローマ字などが縦書きにされている例が少なからずあるという。もちろん、近年になってのことらしいが、スペースなどの面から考えると、この縦書きがいいらしいのだ。
                気がついて、なぜかホットしている自分が見える。

オマールの壁

   オマールの壁

 2013年            原題『OMAR』    パレスチナ  監督:ハニ・アブ=アサド

 スクリーンに壁が映し出される。何枚もの板が突き刺さったような、なんとも異様な風景だ。街を切り裂くように無慈悲に立っている。これは、イスラエル政府によって建設された分離壁である。政府の説明では、「セキュリティ・フェンス」であり、パレスチナ人による自爆テロの防止のためであるとしている。しかしこの壁の存在によって、パレスチナ人の生活そのものが分離されてることは確かだ。
 主人公オマール(アダム・バクリ)は一本のロープを使って8メートルほどもあるその壁を乗り越える。恋人ナディア(サーム・リューバニ)に会いに行くためだ。そして、オマールは、友人のタレク(エヤド・ホーラーニ)とアムジャド(サメール・ビシャラット)とともにイスラエル軍への襲撃を企てていた。

 実行後、ナディアを含む四人の運命は大きな音を立ててきしみはじめる。歴史に翻弄されるイスラエルとパレスナの今の姿がそこにある。

 アメリカ合衆国大統領選挙共和党候補ドナルド・トランプがメキシコとの国境に壁を造るといっていたが、その先行形態はすでにあったのだ。
                             日本語監修は重信メイ
                     
                          (6月4日千葉劇場にて)