2015年12月27日日曜日

気まぐれ野郎メシ(沖縄そばのあんかけ)

沖縄そばを利用。そばは生麺なので、軽く2分くらい湯でるだけ、人参の薄切り、キャベツのザク切り、しめじを適当量合わせ炒め、あんかけにするだけ。
 これは、美味しい。もちろん、いろんな野菜を使ってOK。中途半端に余った野菜を利用すればよい。あんかけの味付けも、塩ベースででも醤油べーすでもよい。私は、沖縄そばの出汁を冷蔵庫に常備している。これはいろんな料理に利用できるので、便利。

気まぐれ野郎メシ(トマトツナ缶詰)

久しぶりのブログ。なんだか美味しそうに撮れていないなあ〜。しかし、そもそもそんなにたいしたことのないものであることは確か。腐りそうになったトマトをなんとかしようと思い、玉ねぎとピーマンを軽い塩味で炒めたその上に、トマトをグサグサ切り、ツナ缶詰を和えてのせただけ。

2015年9月20日日曜日

フリーダ・カーロの遺品ー石内都、織るようにー

 フリーダ・カーロの遺品ー石内都、織るようにー       

監督:小谷忠典                       2015日本

 メキシコの代表的画家、フリーダ・カーロ。過酷な人生を生きた人だ。小児麻痺で障害を持ち、また交通事故で瀕死の重傷を体験する。そんなフリーダの遺品が公開され、写真家石内都が撮影を依頼された。石内都1947年生まれの写真家。濱谷浩、杉本博司に続いて、日本人3人目となる「ハッセルブラッド国際写真賞」を受賞した写真家である。俗に写真会のノーベル賞と言われる。フリーダの着ていた服、足の高さが左右違うブーツ、さまざまな物が公開され、その中にあるフリーダの魂までも写し出そうとする。そんな石内の撮影の様子を取材しているドキュメンタリーである。フリーダ・カーロとはいったいなんなのだろうか。たんに画家というだけにとどまらない、メキシコの魂なのかもしれない。もちろん彼の地でもマイノリティーではあるが、マイノリティーであれば、マイノリティーであるほど、世界的普遍性があると考えるが、どうだろうか。
              (8・27「シアター・イメージ・フォーラム」にて)

暴政ー政治の崩壊ー

 日本には「政治」は存在しない。政府はある、政党もある、内閣もある。しかし、「政治」は存在しない。「人々の意見を聞き、判断し、修正を試みる。」そもそも「議論の意味」というのはそこにある。『安保関連法案』に関して、いったん内閣で決めたら、だれがなんと言おうと、修正すらしない。これを世界史的認識では「独裁制」と言う。
 「民主主義」とは、「国体と考え、国の幸せのために意見を聞き、それを思想の根底に置き、厳しく自己を律し、それを行動の方針とする。」ことであるはずである。①一部の権力者が、②その人たちだけの考えや思想だけを③正しいものと考えて、他の④意見を聞かずにものごとを⑤推し進めることは、近代以降の政治的な理念ではない。
 説明しなくても理解できることだと思うが、①は安倍総理とそれをとりまく政治家、経済界、米国。②は安保法案。③正しいので、丁寧に説明してゆく。④反対する人々。⑤強行採決。歴史的独裁者の論理がいかんなく発揮された結果となった。

 兵器は消費される。需要が増えると、供給も増える。弾薬を米軍に供給したら、それは無償なのだろうか(そうだよな)。すると、その製造費はどこから捻出するのか、普通に考えれば、日本国民の税金。当然そのような考えが導き出せる。とすると、さまざまな税金が高くなる。軍需産業に関わる企業は、仕事が増える。兵器はそもそも高額な製品である。軍需産業はアベノミクスの何本目の矢なのだろうか?どこかにものすごいメリットがなければ、これほどの強引な政府は生まれないだろう。「安全・平和」というキーワードでは、「安保法案」は説明できない。

2015年9月5日土曜日

野火

  野火        監督:塚本晋也          2014日本

 塚本晋也らしい作品。でも、「らしい」とはなんだろろうかと聞かれると、スタイルが「スプラッタームービー」的なシーンがあちこちにある。ということになるだろうか。しかし、塚本の作品が、それを材料にして本質的な何かを暴き出しているということは確かである。この作品『野火』は大岡昇平の代表作であることは誰もが知っていることだろうが、「もっと話題にされてもいいのではないか。」そんな思いが塚本の中にあるのではないだろうか。そして、今こそこの作品を作らなければならない、と。
 現実の戦地というのは、大岡昇平の作品にあるように。そして映像化すると、塚本晋也の作品のようにある。しかし、今の人々はそれを知ろうとしない。概念や観念だけが、イデオロギーだけが先行し、いつかきた道をもう一度進もうとしている。生々しい現実があるのだ。だだこの塚本作品のなかには、原作にあるような主人公田村の内面世界をえぐり出すような表現はない。原作は「神」という言葉がたびたび出てくる。そして田村の過酷な内省がある。哲学書のようでもある。塚本は、いったんそれを封印し、現実そのものを提出した。場面場面はじつに原作通りである。
 いまこの作品を映像化したのは、非常に意味のあることだと思う。映画館には、年配の人がたくさん集まっていた。
 田村一等兵:塚本晋也  安田:リリー・フランキー  伍長:中村達也
 永松:森優作      分隊長:山本浩司      妻:中村優子


                   (8月1日 『渋谷ユーロスペース』にて)

2015年8月24日月曜日

お盆の弟

  『お盆の弟』      大崎 章 監督           2015年日本

 モノクロームの作品。モノクローム・夏・開襟シャツとあれば、どうも私の脳裏には小津安二郎の映像が浮かんでしまう。
 田舎に戻ってきているタカシ(渋川清彦)そこに兄マサル(光石研)いる。マサルは癌の手術をし人工肛門であり、タカシは妻から離縁状を叩きつけられた状態である。なんだか二人ともダメダメである。でも、このダメダメがいい。子供がいるタカシはどうも青春から抜け出せていない。マサルもなんだか誤解の恋愛をしているような感じで、しっかりしていない。普通の生活者としては、同情する部分がかなりあるが、この情けないふたりの日々の様子は、ほろ苦くそして滑稽である。普段の我々は、みんなそんなもの。いい作品であった。
                        (8月2日 『K'sシネマ』にて)

金山康喜ー絶対孤独の風景ー

 もういちど世田谷美術館で開催されている金山康喜の展覧会に行く。気になり、どうもこころに引っかかる作家である。『食前の祈り』(1950年)の目を閉じた人々と真っ黒な椅子が地平の先に遠ざかっていくような作品。部屋の中であるはずなのに、地平線のような堺がある。『聖ユーレリウスの器』(1949年)でも、テーブルの周りに黒い椅子が取り巻いており、遠くに消えてなくなろうとしている。背景はどれもブルーだ。主人が居ないイス。腰掛ける者のいないイス。永遠の不在を物語るような、孤独の極北。金山は永遠の孤独を抱え持って生きていたのかもしれない。そんな思いに駆られる。してみると、野見山暁治の作品もまた孤独感が溢れる。『落日』『室内の人』(1959年)どの作品も孤独感がある。これが二人を引きよせた要因かもしれない。
 フト思うのだが、金山の筆致にベン・シャーンと国吉康雄を感じる。

2015年8月22日土曜日

雪の轍

 雪の轍 

      英題:Wintre Sleep   は原題に忠実な訳。監督:ヌリ・ビルゲ・ジェイラン
                                  (トルコ) 

 全編3時間16分。第67回カンヌパルムドール大賞受賞作。トルコの静かなカッパドキア。夏は暑く、冬はマイナスを遥かに下回る。場面は晩秋から冬にかけての凍えるような季節を背景としている。いったん雪が降りだすと、車で坂を登ることもできなくなるようだ。作品の中で、しばしばそう語られる。
 親から資産を受け継ぎ、ホテルのオーナーとして生活している元俳優アイドゥン(ハルク・ビルギネル)は、地元新聞にコラムのようなものを書いている。いつも書斎のパソコンに向かってる。この男を中心にした物語。いや、物語といえるほどの物語性はない。滔々と流れる時間の中で、人々の内面が浮き彫りにされる。主人公のアイドゥンは、日本の高等遊民のような、あるいはロシアの没落貴族のような、なんとなくそんな雰囲気を醸し出している。かなりのインテリゲンチャなのだ。歳の離れた若い妻ニハル(メリサ・ソゼン)はその生活にどこか不満を感じている。張り合いのない生活の中、夫との議論も噛み合わない。自分自身の存在意義を感じようとボランティア活動にのめり込んでいる。そのホテルには、妹ネジラ(デメット・アクバァ)も離婚して戻ってきている。ネジラはアイドゥンの考えや記事を徹底的にこけおろしている。いつもアイドゥンの背後にあるソファーに寝そべって、批判を展開するが、アイドゥンは取り合わない。
 季節は冬に入り、雪が散らついたかと思うと翌朝は一気に深い雪景色となる。岩の中のホテルの客は、若い日本のカップルだけ。そして、何よりもこの作品に底流する重要なテーマは「貧富の差」である。上映直後、刺激的な場面に出会う。使用人ヒダーエット(アイベルク・ペクジャン)の運転するジープに同乗するアイドゥンのサイドガラスめがけて、石が投げられる。石は真っ直ぐに飛んでき、ガラスを破損させる。リアルなシーンだ。それを投げたのは、イリヤス(エミルハン・ドルックトゥタン)という少年。父親はアルドゥンから家を借りていて、支払いができず弁護士により家具が差し押さえたばかりだった。
 言葉とは何か。言葉によって我々の世界は成立し、言葉によって人々の関係性ばかりか、社会、国家の関係性が複雑化する。この作品に溢れる膨大な言葉の海。閉ざされた冬のカッパドキア。分厚い哲学書の頁を丁寧に捲り終えた気分になる。
                    (7月19日角川シネマ有楽町にて)

2015年8月21日金曜日

舟越保武 まなざしの向こうに ー練馬区立美術館ー

 7月12日〜9月6日の開催。日本の具象彫刻の代表的な作家である舟越保武の展覧会。亡くなって13年が経つ。もちろん舟越桂の父親である。でもみなさん、三男の舟越直木さんも美術家であることをお忘れなく。
 「ダミアン神父」「原の城」「長崎26殉教者記念像」はやはり代表作らしく、館内の空気を特別な次元に持ち上げているように思えた。この三作品に共通するのは、「物語性」ということにある。深い物語の主人公たちである。特に私の好きな作品は1971年制作の「原の城」である。名もない領民の姿であろうか、放心したような表情、あるいは深い悲しみの表情であろうか。言葉にならない言葉を絞りだそうとしているかのような口元、そして目は埴輪のようにぽっかりと穴が空いているだけ。何かを見ているわけでもなく、虚ろなまなざしのような、なんとも言えない空虚な目である。目がないので何も見ることができないのであろうか、あるいは目がないために人が見ることができない道理を見ているのだろうか。さまざまに受けとることができる。粗末な鎧を着た猫背の男、立っているのがやっとのような、存在感の希薄な立像。しかし、その存在感のなさが、圧倒的存在感となって我々を襲う。

2015年8月20日木曜日

金山康喜のパリー世田谷美術館ー

 2015年7月18日から9月6日まで開催の「金山康喜のパリー1950年代の日本人画家たち」の鑑賞のため世田谷美術館に行く。8月の猛暑は田園都市線用賀駅から歩くのにはかなり身体的に負担がかかる。住宅街には人工の小川があるが、涼むことができない。今夏の猛暑は記録的である。環状八号線を越えて砧公園に入って、ようやく太陽を避けることができた。
 金山康喜の画面の青は、そんな私を癒してくれた。洋の東西を問わず、さまざまな静物画を見てきたつもりであるが、この画家の「静物画」は、何か特別な感じがしてならなかった。それがなんなのか、まだわたしには解明できていない。もちろんそれぞれに好みがあるだろうが、この画家の作品は、私の心に深く入り込んでくる。33歳で夭折した画家である。

 1926(大正15・昭和元年)大阪市に生まれる。父親は貿易商だった。
 1943(昭和18)富山高校入学、美術部に所属する。
 1945(昭和20)東京帝国大学経済学部経済学科に入学。同年8月広島・長崎
           に原爆投下され、終戦。
 1948(昭和23)東京帝国大学卒業、大学院社会科学研究科に入学。猪熊弦一郎
           主催の「田園調布純粋美術研究所」に入る。ここに古茂田守介や
           田淵安一がいた。田淵は5歳上であるが、東京帝国大学の同級生
           である。同じ年に大学に入学し、同じ年に大学院に進む。田淵は
           文学部美術史学科。そして51年に金山とともに渡仏する。
 1951(昭和26)渡仏。同行者は田淵安一と関口俊吾。金山の目的は数理経済学
           の研究であった。数理経済学と言えば、宇沢弘文を思い出す。
           宇沢は1928年の生まれであるから、金山とは2歳しか違わな
           い。宇沢は2014年86歳で亡くなった。反戦平和主義の気骨
           のある学者だった。
 1952(昭和27)フランスのアンデパンダン展などに出品する。9月のソルボンヌ
           大学に入学する(田淵もソルボンに入学する)その後さまざま
           なところで作品を発表する。他方、フランス経済学者の書籍を翻
           訳し、白水社から出版する。
 1955(昭和30)ローヌ県のサナトリウムで肺の3分の1を切除。経済学ではな
           く、画家として生きることを決意
 1958(昭和33)父親の病気見舞いのため一時帰国。
 1959(昭和34)東京逓信病院に入院、6月16日急逝。遺品の整理は、藤田嗣
           治、野見山暁、日本大使館の佐々木三雄らが行った。作品の荷造
           りに鴨居玲が加わり、金山の静物画に魅了されたようであった。

 人と交わることをが苦手な金山の周りには、さまざまな人たちがいた。そしてこの展
覧会には、そんな人々のまとまった作品も目にすることができる。それは圧巻である。
藤田嗣治・佐野繁次郎・荻須高徳・猪熊弦一郎・佐藤渡・関口俊吾・古茂田守介・菅井汲・野見山暁治・田淵安一・岡本半三・今井俊満・堂本尚郎そうそうたるメンバーである。野見山暁治の細君がパリで亡くなったときの葬儀委員長が金山だった。野見山のエッセイ『四百字のデッサン』にこのような記述がある。

 「私がパリに着いて二日目、日本学生会館の暗い廊下を歩いて小柄な青年を、誰かが私に引き合わせた。あきらかに彼は迷惑そうだった。ー急ぎますのでー」
 「レストランでもサロンでも時折、私はカナヤマを見受けたが、彼は自分に話しかけようとする人間を認めると、ツイと席をたって足早にその場を去った。ー急ぎますのでー。いつも背後からだけ、カナヤマの小さな猫背の姿を私はまじまじと眺めた。」
 「カナヤマは自分が不幸になることについては信じられないほど、果敢な男だった。」

        とてもいい展覧会だった。少し熱中症気味で帰途に着いた。
 

2015年8月18日火曜日

暴政ー戦後70年談話ー

 8月13日の首相談話。「」内はママ。
 「100年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、ひろがって」いた。その「波」が「アジア」にも押し寄せ、日本もその「危機感」が「近代化の原動力となったことは、間違い」ない。植民地主義が日本の近代化を推し進めた、と読み取れる。つまり武器の進化とその利用は近代化にとっては必要なものなのだろうか。
 「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけ」た。日露戦争の勝利は小国日本が大国ロシアに勝利した。たしかにそうだろう。しかし、勇気づけて我々日本国は、アジアやアフリカを全面的に助けたのだろうか。アフリカに何か協力したのか、戦後には海外協力隊などが作られたが、その当時はどうだったのか。アジアに対しては、満州国を作ったり、創氏改名などを行ったり、これは侵略ではなかったのか。
 「欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進め」日本は「大きな打撃」を受けた。日本は「孤立」し、「力の行使によって解決しようと試み」た。「政治システムは、その歯止めたりえなかった。」
 ここまでは、まるで歴史の教科書を読むような内容だ。軍部と政治家の遊離を述べているのだろうか、であるならこの経験で、軍事力を抑えて、政治力で進まなければならないということであろう。そのことを言わなければならない。現代の日本国が、かつての行動をどのように評価し、今後どのように進まなければならないのか、この時点でのべなければならないように思う。
 満州事変の後、日本は「『新しい国際秩序」への『挑戦者』となっていった。」そして「戦争への道を進んで」行った。「挑戦者」とはなんだ。「挑戦者」とは困難なことに立ち向かう人のこと、「反逆者」ではなかったのだろうか。

「戦後70年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます。

先の大戦では、300万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、酷寒の、あるいは灼熱の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました。

戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。

何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。

これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。」

犠牲になった、犠牲になった、という語。誰が何をしたのか、アジアの人々が犠牲になった。誰のどのような行動によって犠牲になったのか、第二次世界大戦の犠牲者と言えば、責任の所在がわからない。「断腸の念」だけなのか、これは個人の思いの表現であって、国家元首の公的な言説でない。この部分は、感傷的な表現が多く、談話に長々と述べる意図は何か、悲しみの共有者であると言わんばかりの言、あなたのお爺ちゃんもあなたも、そのような辛酸を舐めてはいない。元首として言うなら、そのことの責任はどこにあったのかに触れなければならない。
 「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。」

 我が国日本はどのような態度をとり行動するのか、国外で武器を使用しないという宣言として理解していいのか、そうならば集団的自衛権と真っ向から反対する行動ではないのか。国外に出ることは、集団的自衛権では当然の行動。では武器を使用した場合は、なんという説明をするのか、予想としては『相手から攻撃されたので、自衛のための武器弾薬の使用である』というのだろう。でもこれは論理矛盾である。「植民地支配から永遠に決別」それはそうだろう、でも主語がない。漠然としている。

 「我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。」

 表明してきました。あなたはどうなのですか。

「中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。」

 残留孤児のひとたちは、中国の人々により自分の子としてちゃんと育てられてきた。現代中国の政治家はどうかわからないが、都市を離れた農民たちのなかに、このような深い思いやりの心を持った人々がいることに感謝しなければならない。

「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」

 国家として宿命を負わせたのです。ドイツでは負の遺産として後世に伝えているといいます。負の遺産として伝えなければ、誰かのようにまた軍備使用可能組織を国外に派遣しようとする無知蒙昧な無自覚な人を生み出してしまうのです。賢者は歴史に学ばなければいけません。

 「そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。

 私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。」

 力によって打開しようとした。そうです、帝国軍の戦闘行為です。これによると、集団的自衛権は行わないと理解していいのか。法の支配を尊重するというのは、憲法を勝手に解釈しないと理解していいのか。現政権と違うのではないか

 「私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。」

 主語がない。5W1Hをはっきりさせなければならないように思う。戦時下、具体的に場所は?多くの女性、どこの国の女性?誰が傷つけたの?国家元首として明確にしなければならない。歴史を振り返るということはそういうこと。


 安倍派の経済評論家などは、絶賛している。なぜか。軍事関係製品は日本にとって大きな経済成長を目指せるからだろう、おそらく。

 談話とは何か、天皇陛下の方が、しっかりした言葉で伝えている。

2015年8月12日水曜日

青虫

 庭の草刈りをしていた。ふっと気ずくと、青虫がTシャツにくっついていた。とりあえずほろっておいたのだが、ベランダから部屋に入ろうとしていたらコンクリートの上でのたうち回っていた青虫を発見。それは存在危機状態という感じであった。どうやら塗装したコンクリートの上は青虫にとっては地獄のようだ。わたしは、彼をつまんで庭の草に乗せてやった。するとどうだろう、彼はしっかりと草を掴み、くねくね動き回った。ここが青虫の生きる場所なのだ。人工的なツルツルした場所は生存圏内ではないのだ。
 我々はことほど作用に、人間の都合でさまざまな場所を作り出している。我々にとっていい場所が、他にとってはいい場所ではない。種の比率で言うと、我々の方がマイノリティーであるのかも知れない。ところで原発はなんだろう。

2015年7月29日水曜日

暴政ー7月28日ー

 国会デモ行進に参加しました。「集団的自衛権」反対の行進です。この法案が決まると、3、4年後は何事もなく過ぎ去るでしょう。そして政府は、「ほら、何もないでしょう。戦争だって起こりませんよ」というでしょう。米国だって、すぐに行動の要請はないでしょう、頭がいいのです。でも、その後ジワジワいろんなことが起こり、米国の要請が始まるとおもいます。
 与党は、野党は「対案」をだしていないから情けないのだ。といいます。若い経済評論家も異口同音にそんなことをいいます。どうしてそんなに頭が悪いのでしょうか。その法案そのものに反対しているのです。いまの状態を変えるなと言っているのです。

2015年7月27日月曜日

暴政ー7月26日ー


 7月26日(日)「国会包囲行動」に参加して来ました。猛暑でしたが、たくさんの人が集まっていました。私は、「九条美術の会」としての参加でした。

2015年5月26日火曜日

暴政

 「生島ヒロシのサタデー一直線」というラジオ番組がTBSラジオにある。土曜日の午前6時前である。5月23日の土曜日、なにげなく布団の中で聞いていた。ゲストが元総理の森喜朗であった。もとより私が嫌いな森喜朗であるのだが、聴いていて納得する部分が多々あった。今の安部総理に対する批判的なことを述べていたような気がする。

 5月9日、ロシアの軍事パレードがあり各国の要人を招待していた。ナチスドイツに対する戦勝70年、ということである。想像の通り、日本から安部首相が行くわけでもなく、ドイツのメルケルが行くわけでもなく、アメリカのオバマが行くわけでもなかった。

「ロシアNow」というWEBでこのような記事が配信されている。
 安倍晋三首相は、モスクワで5月9日に行われる対ドイツ戦勝70周年記念式典に出席しない。タス通信がこれを伝えている。
 菅義偉官房長官は28日、東京で行われた記者会見でこれを正式に発表した。式典には、原田親仁駐ロシア大使が代理で出席する。
 安倍首相の出欠についてはこれまで、最終的な決定が行われていないと伝えられていた。
 式典への出席を拒んだのは、アメリカ、イスラエル、ポーランド、リトアニア、ラトビア、エストニア、イギリス、スウェーデン、フィンランド、ノルウェー、オランダの首脳および欧州理事会の議長。すべての欠席の連絡において、ウクライナ情勢に対するロシアの姿勢が理由と関連付けられている。
 式典への出席の予定を伝えたのは、北朝鮮の金正恩第1書記や、スロバキア、キプロス、ギリシャ、インド、南アフリカ、モンゴル、ベトナム、ボスニア・ヘルツェゴビナ、アイスランド、マケドニア、セルビア、キューバの首脳。

 しかし、次の日の10日メルケルはモスクワを訪問した。内閣はアメリカに気を使って何のアクションも見せなかったが、とうの米国は3日後12日にケリー国務長官をソチに送った。このように外交手段をドイツも米国も駆使する。森喜朗は外務官僚に進言しても、安部総理は動かない。2月13日安部首相がロシア訪問したさいに、プーチンは大統領別荘に安部を招き入れ食事を共にした。一方中国の習近平とはホテルで食事をした。この差は大変な意味があると森喜朗は指摘。それでも安部はそれに見合う行動(外交)をしない。また、メルケルや仏国のオランドはプーチンと頻繁に電話で連絡をとっているという。あるとき、メルケルが電話でのやりとりのあることについて、内容を米国にも伝える。といったときプーチンがすかさず、もう米国は聴いているから、とくに連絡する必要もないだろうと電話口で言ったという。笑い話のようであるが、真実味がある。また、あるときに森が総理から連絡するように言うと言ったら、9月21日が安部の誕生日だから、こっちから電話するよ。と言ったという。プーチンはこのように、さまざまに動いているが、日本の総理は動かないらしい。すべては米国に気を使っている故の行動。
 安部の外交などと報道されてひさしいが、なんのための外交なのだろうか、ボーイング747正務機・副務機の2機で頻繁に海外訪問をしているわりには、はたしてどうなのだろうか、という疑問が湧く。
 森喜朗の側ではないが、ラジオ放送を聴いていて、納得する部分が多々あった。







2015年5月5日火曜日

きまぐれ野郎メシ

揚げ出し豆腐


 水切りした豆腐を片栗粉でまぶし、油で揚げてから蕎麦つゆ1:水4ぐらいの割合で煮詰めたインスタントだし汁をかけて出来上がり。しかし、正直言ってこれは失敗編だ。
 そこで、次の日やり直した。

            揚げだし豆腐まあまあ編

   今度は、木綿豆腐。もちろん絹ごしであろうが、なんでもいいのだが、一応今回は木綿を使おうというただそれだけ、理由はない。水切りして片栗粉でまぶしてこれは変わらない。ゴマ油で揚げる。水切りしている間に、あんかけを作る。長ネギを切り、冷蔵庫にあるぶなしめじと一緒に炒め、醤油みりん砂糖であんかけを作り、そのままかけて完成。やはりちゃんとあんかけにするべきだ。そのときある適当な野菜、きのこ系があればいいだろう。とりあえず美味しくできました。

きまぐれ野郎メシ


人参タラコ


  人参しりしりで、細かくする。そのあとゴマ油で炒める、味は定番の醤油みりん。しかし、タラコを和えるので、濃いめにならないように要注意。炒め終わったら、タラコを和えて出来上がり。あっという間に出来上がる。それにしても「和える」という日本語はいいなあ、「和」ですからねえ。

2015年4月29日水曜日

きまぐれ野郎メシ

ジャガイモ・ベーコン


 まあ、レシピは東京新聞に掲載されていた土井善晴さんのもの。新ジャガの季節限定かな。
 
新ジャガ600g・ベーコン(塊)200g・ニンニク3片・サラダ油大さじ2・水2と1/2カップ・酒1/2ップ・砂糖大さじ2・醤油大さじ2と1/2カップ。

皮付きじゃがいもを油で炒める。水分がけっこう残ったまま熱した鍋に入れたので、かなりやばかったが、まあなんとかなった。そのあと、ニンニクとベーコンを入れて炒め合わせる。ある程度したら、水と酒を入れて煮る。ニンニクはあらかじめ潰しておく。15分ほど落とし蓋をして煮る。落とし蓋が無かったのでアルミ箔で代用。ベーコンは正式のレシピでは塊ものであるが、冷蔵庫にある普通のものを利用、したがって写真のようにちょっと情けない感じになってしまう。でも味的にはなんの問題はない。そのあと醤油を入れてまた10分ほど煮る。水分がなくなるまで煮る。最後に醤油を回しかけて完成。
 ジャガイモの味がいい。小葱をかけてもいいかもしれない。まあ。緑が添えられるので。

2015年2月25日水曜日

おみおくりの作法

 原題:STILL LIFE                                                監督・脚本:ウベルト・パゾリーニ
                       2013年イギリス/イタリア

 原題が「STILE LIFE」池澤夏樹の小説に「スティル・ライフ」という作品があった。第98回芥川賞受賞作品だ。この映画作品とは全然関係ないのだが、スティルライフという語を見て、思い出した。ローリングストーンズのアルバムにも同名のタイトルがあった。意味は「静物画」だという。どうしてこの題名なのだろうか。この作品を見ているとき、なんとなく小津安二郎監督(1903-1963)の作品に影響されているのだろうか、と感じたのだが、どうやら当たっていたらしい。固定カメラでの撮影は小津の方法を倣ったという。
 ロンドン、ケニントン地区の民生係ジョン・メイ(エディ・マーサン)はアパートに一人暮らし、身寄りもないらしい。そのジョンの仕事は、彼と同じように身寄りのない人を静かに見送る仕事だった。感情の起伏を抑えた静かな画面が続く。死を前に、きわめて静かな空気が流れている。決まり切った日常を淡々と過ごすジョン・メイ。しかし彼の仕事は、寂しい。彼は決して人からの評価を気にしない。自分の心の流れにしたがって仕事をし、評価は関係ない。トースト一枚とツナとりんご一個が毎晩のご飯。その姿は殉教者のようでもある。彼は満足だったにちがいない。ラストシーン、静かな感動に満たされる。
                 (2014、2月14日 シネスイチ銀座にて)

  

2015年1月27日火曜日

M.花田の優雅な日々2(権之助坂)

 東京都庭園美術館にでかけた。リニューアルオープンして新館も設けられ、喫茶室は新館に移された。庭はまだ整備中であった。アール・デコの粋を集めて造られた朝香宮家の邸宅。贅沢の極みのような建造物だと感じても、世界にはもっと贅沢なものがある。でもこのようなものが文化を後世に伝えて行くのだから、偏った倫理観は持たないようにしようと思う。


 ところで、太宰治が住んでいた杉並区の民家兼アパートが取り壊されるかもしれない、という記事が東京新聞1月25日朝刊の一面に踊っていた。昭和初期の木造二階建てのものだが、これもやはり当時の人々の生活文化を伝えるものであり、まして太宰が住んでいた場所だ。どうかそのような建造物も東京都の予算を使って購入維持して欲しいものだと切に思う。「竹島を買おうとするぐらいだからねえ」

 美術館を出て、目黒駅を横切り「権之助坂商店街」に向かう。ここ、なんだかいい感じだ。目黒区立美術館に行くときに通りかかってから気になっている。ゆるゆると権之助坂を下りて行く、ふっと目にとまったのが『立ち飲みビストロSHIN』「おっ、いいね。いつものように一杯やっていくか。」と思い、木製の安普請のドアをギシギシ開ける。「あー、5時からです。」中国語訛りの日本語で言われる(タブン)、残念。
 「権之助坂商店街」から「大鳥前商店街」を抜けて行くと、何軒かの西洋古物店やら中古家具店がある。「SONE CHIKA」という店で、ガラスボトルを購入、300円也。「ACME」という店で、レトロな電球を購入、702円也。今度はやはり、立ち飲みに入らなければ。






















                          2015・1・24

2015年1月25日日曜日

暴政(絶妙のタイミング)

 安倍総理が、中東訪問に向かったとき、「なんてバカなことをするのだ。」と思った。フランスの事件が起こった直後だ。なぜ中東に行かなければならないのか、その目的と意味が感じられなかった。日本国内の問題が山積している状態だ。福島の問題も未解決。福祉の予算の削減と、その逆に増やしてゆく他の予算。そして総理に約40社の企業が同行した。
 
 『安倍晋三首相は16日午前、エジプト、ヨルダン、イスラエル、パレスチナを訪れるため、政府専用機で羽田空港を出発した。空港内で記者団に、パリでの仏週刊紙銃撃事件に関して「イスラム社会と過激主義は全く別のものだ。日本は中東と共に寛容な共生社会をつくっていく。そうしたメッセージを世界に向けて発信していきたい」と語った。
 商社やゼネコンなど約40社の企業や団体の幹部も同行し、商機につなげる。首相は「トップセールスで大きな潜在力を秘めた中東の活力を取り込み、日本の成長につなげていきたい」と述べた。」』(日本経済新聞1月25日WEB版)
 
 外遊するときには、相当の数の日本企業の幹部も同行する。いままでもそうだった。「出光興産」「国際協力銀行」「住友化学」「トヨタ自動車」「川崎重工業」「味の素」など、2013年4月の外遊でも数えたらきりない。今回の中東訪問はビジネスの側面も大きいのだろう。また軍事産業の側面もある。イスラエルにF35ステルス戦闘機(日本企業共同開発)を20機ほど輸出することになっているらしい。そして今回2億ドルの支援を西側諸国と関係する中東諸国にすると総理は約束した。ここでISISが動いた。プールしてある人質を使う。そして安倍を名指した。
 政府内に賢者はいないものか。


 

2015年1月18日日曜日

黒田記念館



 1月2日黒田記念館がリニューアルオープンされた。1月10日、『九条美術展』の搬入で都美術館に行ったときにその看板を目にし、入ってみた。昭和三年の建築であり、瀟洒な西洋建築である。この建物だけでも入館してみる価値は充分にある。 黒田清輝(1866−1924)誰でもが美術の教科書で目にしたことがあるはずだ。明治政府の重要人物黒田清綱の養子であり、フランスに渡りラファエル・コランに師事した。あまりにも名のある人物なので、私自身は黒田清輝を回避してきたが、確かにデッサン力はなみはずれて優れている。貴族院議員であり子爵とあれば、どうも私のへそ曲がりの心がうずいてしまう。でも、いま一度冷静に作品を眺めてみると、やはり『湖畔』や『読書』『マンドリンを持てる女』はいい。フランス滞在中に親密になった女性とはプラトニックであったということであるが、ほんとうかしらん。森鴎外(1862ー1922)のような人もいるのだから、と思ってしまう。なぜ黒田は絵画に目覚めたのだろうか、裸婦を描き続けるにはそうとうの覚悟も必要だったはず。帰国して結婚した女性とは離婚し、芸者であった『湖畔』のモデルと結婚。なんだか、森鴎外と重ねてみたくなる。インディアンサマーの日差しを受け、しばし明治に心馳せてみた。記念館は無料なので、気軽に足を運べる。