2020年1月1日水曜日

コンテンポラリーダンスというもの


勅使川原三郎・佐藤利穂子 
ダンス公演

『忘れっぽい天使 
ポール・クレーの手』



シアターXでの公演、もう何度勅使川原のダンスを見ているだろうか、数えたらきりがない。




 最初に勅使川原というダンサーを知ったのは、勅使川原がまだ髪を剃っていないとき、宮田圭がいたころだ。ダンス以前に舞踏という表現に興味を持っていたが、その流れでコンテンポラリーダンスについて知るようになった。ある放送局の公演記録が放送されていたことがあった。それは日夏耿之介の『夜の思想』という作品を元に創作したダンスだったと記憶している。88年のことだったようだ。転んだり立ち上がったり転んだり立ち上がったりするダンスだった。わたしにとってダンスという表現よりも、山海塾と大野一雄の踊りから身体表現というものに興味があった。つまり暗黒舞踏だ。土方巽の著作や、記録からballetというものから離れた、もうひとつの身体表現であった。それは西欧の芸術表現ではなく、アジアの土着的でそれぞれの民族の日常を元にした踊りの根源に向かうものだった。
 勅使川原の表現は、わたしの暗黒趣味と平行して理解してきたものであった。それにしても、そのモダンな様式は、洗練されたアートのひとつであった。最近の舞台は、シンプルであり、照明もそれほど斬新なものではない。以前は、といってもだいぶ前になるが、山口小夜子が参加していたときには、背中に鉄板を仕込んで電動ヤスリで火花を散らすなどの趣向があり、「物語る」部分も多くあった。またサックスとの共演や、ガラス片が敷き詰められたステージだったりしたこともあった。最近は、勅使川原と佐藤のふたりの舞台が多いように思われる。そして余計なものはできるだけ削ぎ落としているようにも思える。しぜんと身体の動きが闇から浮き上がってくる。
 身体表現にはさまざまなものがあるが、ダンスという範疇に属すものは踊り手の持つ関節の可動域を駆使した組み合わせによる積分であり、それが表現になって行く。balletのように、物語る対象がある場合には、忠実に法則を厳守することが最低条件となるだろう。しかしどのようなダンスであっても、個の鍛えられた関節の可動域であっても、おのずから肉体という限界からとき離れることはない。近年の勅使川原のダンスは、物語ることよりも、身体の特性と限界からどのように解放されるか、ということに向かっているような気がする。もちろんフィジカルな側面ではそのようなことはありえない。それぞれの踊り手によってその個性的なものが表出してくると思うが、その個性というものも先に触れた身体的な限界がある。その領域の中での積分だとは思うが、そのことにどのような意識で向かうかということがひとつの視点を示すことになる。最近の勅使川原のダンスに、解放と限界、限界と解放のあくなき作業を感じているのだが、もちろんこれは勝手な見方であることは承知のうえ。しかし、わたしの勝手な思考がどこかで自分自身の問題を解くことのkeyになると信じている。