2012年3月21日水曜日

描画漫録 2

  パリに持って行く作品を作っている。我ながら、自分の方法についての厳しさを感じている。ひとつとして同じ作品はうまれない。もちろん版画以外の作品は基本的に同じものはない。私の場合は、つねに自分の意図をはなれて作品が動き出す。「たまたま?偶然?さまざまな諸事情?」そんなものではない。私は私自身の作品が立ち現れてくることを、人間の手を離れた「智の結晶」であると考えている。私は、作品にたいして「きっかけ」を与えているに過ぎない。だからこそ現れた作品から、私自身がなにかを得ることができるのだ。作品は頭と技術だけで創造するものではない。自己の存在とインテリジェントデザインとでも言うべき、世界の何かが複雑に関わり合うことで、表出してくるものである。したがって、作品が失敗だということは基本的にはあり得ない。自分が気に入るか気に入らないかというこちら側の感想であり、もしかすると異なった世界では失敗ではないのかもしれない。

2012年3月5日月曜日

描画漫録 1

 また作品の準備をしなけれればならない。S4号のキャンバスを張り、下地の白を塗りはじめた。作品作りには、必ずこの作業がある。そして、意外とこの作業が大切だ。この段階でいいかげんなことをすると、やはり作品に大きく影響が出てくる。媒体の準備段階から気が抜けない。しかし、この作業が身体にとって心地よい。自分が完全に職人になって行くことが感じられるからだ。うまくいくのもうまくいかないのもすべて自分自身の責任だ。すべては自分の技術にかかわっている。刷毛の毛が残っていないだろうか、むらは出ていないだろうか。そんなことを気にしながら、塗って行く。私のキャンバスは表面がつるっとしていてはいけない。ある程度の凹凸が必要だ。その凹凸が水をせき止めてくれたりする。したがって、下地があらかじめ塗られている既製のものではうまくいかない。綿キャンバスに自分で丁寧に塗って行く。作品製作の段階に入ると、自分以外の何者かがやってくる。あるときは神で、あるときはデモーニッシュなものだったりする。

2012年3月4日日曜日

ポロック

『生誕100年 ジャクソン•ポロック』 2012年2月10日〜5月6日 
                             東京国立近代美術館

 ジャクソン•ポロック(1912〜1956)の人生は劇的だ。飲酒による自動車事故で命を落とす。享年44歳。作品に立ち向かう苦悩の様相が印象深い。代表的な作品以外では、批判する批評家も少なくはない。しかし、ポロックの実践した作品というのは、美術史的にも大きな意味を持つ。作品追求のなかで、あの『Number 11,1949』『Untitled』(1949) 『Mural on Indian Red Ground』(1950)が生まれたのだ。空間恐怖とも思われるほど、何層にも何層にもドロッピングで色を落としてゆくオールオーバーの絵画。それは、まさにアクションペインティングでもある。自らの技術を信じて作品に立ち向かう作家もいれば、ポロックのように、ある行為の果てに作品が生まれる作家もいる。ポロックは孤高な求道者であった。
 アトリエの床を再現した企画もあり、興味深かった。

ニーチェの馬

 監督•脚本 タル•ベーラ 2011年ハンガリー/フランス/スイス/ドイツ
 原題『トリノの馬』。荒れ狂う風の中を荷馬車が進む。むち打つ農夫は右腕が効かないらしい。男は娘と暮らしているが、その生活はどこから得ているのだろうか。ただただ風が吹くだけの貧しい土地で、農夫はジャガイモ一個しか食べない。毎日毎日ジャガイモ一個だけだ。井戸から水をくみ、ジャガイモで暮らす。ただそれだけの毎日。ある日馬は働くことをやめ、食べることを拒否する。ならず者らしい集団が一度訪れるが、すぐに去って行く。こんなところではもう生きていけないと悟り、男と娘は馬を連れて出ていこうとするが、また戻って来る。そして何も言わず再びそこで生きようとする。井戸は干上がってしまったのだが。
 モノクロームの154分は、あっという間に過ぎ去った。淡々とこの男と娘を映しているだけの作品。何も起こらない。しかし、人間や世界というものを深く考えて行くと、この作品の持つすごさが伝わってくる。これは、一冊の古い哲学書を読んでいるような気がするな、と思っていると、ならず者たちがやって来て、娘に一冊の本を渡す場面が出て来る。なるほど、これがこの作品の本質なのだ。タル•ベーラは154分の哲学書を提示したのだ。この親子はどのようにして終末をむかえるのだろうか。この作品は終末論である。思えば、あのチェルノブイリの事故があり、避難できなかった村人がいた。あるいは、自らの意志で留まった村人がいた。福島の事故があった。生活したその場所に戻りたいという人々がいる。危険な場所であるとわかっていても、そこに戻りそこで最後をむかえたいと思う人はいる。そこで生活をするというのは、そこで最後をむかえるということでもある。地球上の民のほとんどは古来そのようにして生きてきた。この作品の男と娘は、いったん出て行こうとしたが、すぐに戻って来る。この物語は、とても意味深く思慮深い。
 それにしても、「またもやニーチェなのか」という感想を持つ。日本人にとってニーチェほど身近な哲学者はいないだろう。しかし、ニーチェほど日本人から遠い哲学者はいないだろう。なぜ私たちはニーチェが気になるのだろう。

2012年3月2日金曜日

田中慎弥現象

     2012年下半期の芥川賞が田中慎弥の『共食い』に決まり、その授賞のコメントが話題になった。ふてくされた様子に辛辣な物言い。とくに都知事閣下と慇懃にさげすんだ発言が、ある人たちの喝采を浴びたように感じた。私自身は、このことに関して「出版元との共同作戦」かなと穿った見方をしたのだが、それにしても勇気があると言えばそう言える。その後本人自身が、東京新聞紙上で「都知事に対して批判的な人たちが、自分を通して批判を言わせたいように感じている」というコメントをしていた。作家としての分析力はある人だなと感じた。
    さて、最近とみに「純文学」なるものに興味がわかない。だいたい「純文学」は「純喫茶」と同じように、なんとなく懐かしい、あるいはレトロなにおいを感じさせる。もはやそのような枠組みは解体していると感じている。低迷している文学市場において、今回の騒ぎが25万部の発行部数を超えたらしい。作品より先行して一連の騒動が発行部数を伸ばしたのだろうと思う。かく言う私も実はそのひとりである。最初は、図書館で借りて読めばいいと思っていた。インターネットでこの本を検索していたら、表紙が気になった。それは野見山暁治の作品らしい。俄然興味が湧いてきた。書店に行き、早速手に取ってみたところ、はやり野見山暁治の1995年のシルクスクリーン作品『誰もいない』であった。そして、装丁は菊地信義。美しい本だ。〈青と白〉を基調にした本。青はこの作品に登場する「川?」などと思ったが、それでは青とこの作品中の川はあまりにも乖離している。「見返り」は青の紙にエンボスがかかっている風に白い雨だれがオールオーバーに印刷されている。「はなぎれ」は青のドットに白を乗せて二重になっている。各ページの「ノンブル」が微妙にポイントを変えたり、位置をずらしたりしている。誠に心憎く美しい本だ。
   本としては極めて美しい。では、やはり作品は、ということになる。いろんな騒ぎは騒ぎとしてやがて忘れられて行くだろう。作家は社会運動家ではなく、TVタレントでもない。キャラで勝負するわけにはいかない。小説家として、その作品を問われ続けて行くのだ。題材は「性と暴力」。なるほどそこに行くか。地方に住む父親と息子の忌まわしい血の問題。性と暴力でつながった血。すると、中上健次の作品世界を思い起こす人も少なくはないだろう。そんな文学の流れの延長線上にあることはまちがいがない。つまり、日本の純文学に底流するひとつの方向性だ。あっと驚くような斬新なものではない。いままで先人が追ってきたものを、この作家も等しく追っている。確かにまとまりもよく完成度も高い。私としては、それはそれとして、日本文学の世界においてこの方向性はまだまだ続くのか、というある種の諦念にも似たものを感じざるを得ない。「性、血、暴力」でなければ描けないものがあるのだろうか。もちろんこの作品だけで判断するわけにもいかず、他の作品を読んではいないので、こんな感想は作者に失礼かも知れないのだが、(純)粋に作品論ということに限って言えば、そんな感想を持つ。

2012年3月1日木曜日

「凪」の音と「荒れ」の音

 沖縄の三線と津軽の三味線について考えていた。ルーツを同じくする三味線であるが、その音色と奏法が見事に対極にあるように感じていた。なんべんもなんべんも聴いてきた三線の音色。自分自身でも少し弾いてみたりもする。
 沖縄のラジヲ放送を聴いていたときのことである。フッ、といままで思ってきたことに自分なりの結論づけができた。それが「凪」と「荒れ」である。三線の曲が、短いフレーズでくり返され、それで歌者が語るように歌う。このくり返しの音曲が、思いの外多いのである。琉球の浜辺に打ち寄せる穏やかな波を私は思い描いたのである。くり返しくり返し打ち寄せる波を、三線で表現するとこのようになるのではないかと思った。それも凪の波である。そんな浜辺で琉球の民は、はるか海の向こう、ニライカナイに向けて語って来たのではないだろうか。もちろん、「沖縄は台風の通り道だから、そんな凪いでばかりではない。むしろ荒れているときのほうが多いんじゃないか。」という反論はあるだろう。しかし、台風は危険であるので、琉球ではみんな屋内にとどまって、台風が通りすぎるのをひたすら待っている。台風一過のときほど空は晴れ上がり、海は美しく輝いているだろう。と思えば、台風の数ほどその後の海の美しさもあるのではないだろうか。浜に出て奏でる三線は、おのずとその自然と溶け合うようになる。
 では、北東北の極にある津軽三味線の曲はどうだろう。棹の先から根元にいたるまで使った荒れ狂うほどの曲ではないだろうか。そしてもちろんこれは台風ではなく、年がら年中荒れている海である。生活するためにはその荒れ狂う海と共生しなければならず、雪に閉ざされた冬も長い。自然と対峙して行く姿がそこに現れているように思えるのである。
どちらも、貧しい人々であったに違いない。