監督•脚本 タル•ベーラ 2011年ハンガリー/フランス/スイス/ドイツ
原題『トリノの馬』。荒れ狂う風の中を荷馬車が進む。むち打つ農夫は右腕が効かないらしい。男は娘と暮らしているが、その生活はどこから得ているのだろうか。ただただ風が吹くだけの貧しい土地で、農夫はジャガイモ一個しか食べない。毎日毎日ジャガイモ一個だけだ。井戸から水をくみ、ジャガイモで暮らす。ただそれだけの毎日。ある日馬は働くことをやめ、食べることを拒否する。ならず者らしい集団が一度訪れるが、すぐに去って行く。こんなところではもう生きていけないと悟り、男と娘は馬を連れて出ていこうとするが、また戻って来る。そして何も言わず再びそこで生きようとする。井戸は干上がってしまったのだが。
モノクロームの154分は、あっという間に過ぎ去った。淡々とこの男と娘を映しているだけの作品。何も起こらない。しかし、人間や世界というものを深く考えて行くと、この作品の持つすごさが伝わってくる。これは、一冊の古い哲学書を読んでいるような気がするな、と思っていると、ならず者たちがやって来て、娘に一冊の本を渡す場面が出て来る。なるほど、これがこの作品の本質なのだ。タル•ベーラは154分の哲学書を提示したのだ。この親子はどのようにして終末をむかえるのだろうか。この作品は終末論である。思えば、あのチェルノブイリの事故があり、避難できなかった村人がいた。あるいは、自らの意志で留まった村人がいた。福島の事故があった。生活したその場所に戻りたいという人々がいる。危険な場所であるとわかっていても、そこに戻りそこで最後をむかえたいと思う人はいる。そこで生活をするというのは、そこで最後をむかえるということでもある。地球上の民のほとんどは古来そのようにして生きてきた。この作品の男と娘は、いったん出て行こうとしたが、すぐに戻って来る。この物語は、とても意味深く思慮深い。
それにしても、「またもやニーチェなのか」という感想を持つ。日本人にとってニーチェほど身近な哲学者はいないだろう。しかし、ニーチェほど日本人から遠い哲学者はいないだろう。なぜ私たちはニーチェが気になるのだろう。