2012年3月2日金曜日

田中慎弥現象

     2012年下半期の芥川賞が田中慎弥の『共食い』に決まり、その授賞のコメントが話題になった。ふてくされた様子に辛辣な物言い。とくに都知事閣下と慇懃にさげすんだ発言が、ある人たちの喝采を浴びたように感じた。私自身は、このことに関して「出版元との共同作戦」かなと穿った見方をしたのだが、それにしても勇気があると言えばそう言える。その後本人自身が、東京新聞紙上で「都知事に対して批判的な人たちが、自分を通して批判を言わせたいように感じている」というコメントをしていた。作家としての分析力はある人だなと感じた。
    さて、最近とみに「純文学」なるものに興味がわかない。だいたい「純文学」は「純喫茶」と同じように、なんとなく懐かしい、あるいはレトロなにおいを感じさせる。もはやそのような枠組みは解体していると感じている。低迷している文学市場において、今回の騒ぎが25万部の発行部数を超えたらしい。作品より先行して一連の騒動が発行部数を伸ばしたのだろうと思う。かく言う私も実はそのひとりである。最初は、図書館で借りて読めばいいと思っていた。インターネットでこの本を検索していたら、表紙が気になった。それは野見山暁治の作品らしい。俄然興味が湧いてきた。書店に行き、早速手に取ってみたところ、はやり野見山暁治の1995年のシルクスクリーン作品『誰もいない』であった。そして、装丁は菊地信義。美しい本だ。〈青と白〉を基調にした本。青はこの作品に登場する「川?」などと思ったが、それでは青とこの作品中の川はあまりにも乖離している。「見返り」は青の紙にエンボスがかかっている風に白い雨だれがオールオーバーに印刷されている。「はなぎれ」は青のドットに白を乗せて二重になっている。各ページの「ノンブル」が微妙にポイントを変えたり、位置をずらしたりしている。誠に心憎く美しい本だ。
   本としては極めて美しい。では、やはり作品は、ということになる。いろんな騒ぎは騒ぎとしてやがて忘れられて行くだろう。作家は社会運動家ではなく、TVタレントでもない。キャラで勝負するわけにはいかない。小説家として、その作品を問われ続けて行くのだ。題材は「性と暴力」。なるほどそこに行くか。地方に住む父親と息子の忌まわしい血の問題。性と暴力でつながった血。すると、中上健次の作品世界を思い起こす人も少なくはないだろう。そんな文学の流れの延長線上にあることはまちがいがない。つまり、日本の純文学に底流するひとつの方向性だ。あっと驚くような斬新なものではない。いままで先人が追ってきたものを、この作家も等しく追っている。確かにまとまりもよく完成度も高い。私としては、それはそれとして、日本文学の世界においてこの方向性はまだまだ続くのか、というある種の諦念にも似たものを感じざるを得ない。「性、血、暴力」でなければ描けないものがあるのだろうか。もちろんこの作品だけで判断するわけにもいかず、他の作品を読んではいないので、こんな感想は作者に失礼かも知れないのだが、(純)粋に作品論ということに限って言えば、そんな感想を持つ。