2012年11月12日月曜日

銀座2丁目のクネクネビル


 銀座2丁目にこんなビルがある。クネクネ波打っているビル。『デビアス銀座本店』だ。
 建築家は誰だと思い、検索してみたら光井純(みついじゅん1955年生まれ)である。建築家としては超famousな人物である。アメリカのイェール大学の院に留学した人である。もちろんイエール大学といえば、建築学部の学部長はシーザー•ペリであった。光井はペリに師事し、シーザー•ペリ&アソシエーツに勤務し、後にシーザー•ペリ&アソシエーツジャパンを設立した。そのときの建築が、東京国際空港第二旅客ターミナルビルや、国立国際美術館であろう。
 私事であるが、よく千葉県幕張のシネプレックス幕張に映画を観に行く。そのとき、映画館が入っているビルの向こうに、『aune幕張』というテナントビルがあるが、それが光井純の作品だった。とりたてて特異な作品ではない。また、浦安に『光井ガーデンホテルプラナ東京ベイ』というHOTELがある。そこにナチュラル•ローソンが入っていて、何回かローソン目当てに、そこに行った。どうやらそのHOTEも光井の作品のようだ。ちなみに銀座2丁目のこのビルは、デビアスだ。南アフリカの宝石関係の大企業。けっこうアパルトヘイトや、いろんな政治的な絡みがある企業。このような大きな仕事をする建築家は、純のみでは仕事が出来なのだろう。いろいろ調べているうちに自分自身が複雑な思いにとらわれることとなった。

2012年11月11日日曜日

気まぐれレシピ(うめぼし)


 なんていうこともない、ただ梅肉をトマトとお豆腐にかけただけのもの。うめぼしは、蜂蜜漬けのものなので甘い。かんたんな万能ダレといってもいい。ビールのおつまみに、5分もかからず出来てしまう。
 わたしのようなめんどくさがりには、けっこういい。

『点より•••』展2012


 さいたま市北浦和「アートプレイスK」でのグループ展(三人)の様子です。わたしは作品を送っただけで、展示はオーナーの近内さんにお任せしてしまいました。自分以外の誰かに完全に任せてしまうというのも、ひとつの方法だと考えました。わたしの場合は、かなりインスタレーション的な展示なので、これもコラボレーションのひとつです。

左の作品はパネル/右は綿布
 会期:2012年11月5日〜13日
   
サイズはS4号

2012年11月3日土曜日

声をかくす人

 ロバート•レッドフォード監督作品 2011アメリカ
 メアリー•サラット。アメリカ大統領リンカーン暗殺の共謀者として絞首刑にされた、最初の女性。実在の人物と事件を作品化したものである。自分が営む下宿屋に、犯人が頻繁に通っていたということで、軍法会議でさばかれた女性メアリー•サラット(ロビン•ライト)は息子をかばったためか、不当な裁判により合衆国最初の女性死刑囚として命を落とした。政府はとにかくこの事件の決着を早くすることが、国家の安全だとして動く。目的のためには、どのような方法も辞さない。元北軍の大佐フレデリック•エイキン(ジェームス•マカヴォイ)は、弁護士となり、メアリーを助けようとするが判決は死刑となる。これは、一生活者と国家との戦いである。「国家を立て直すためにには、憲法を無視してもいい」という検事の言葉があるが、これがアメリカの基盤をなす思想のように思えてしまう。このような作品をよく作ったものだと感心した。

vanpire


  岩井俊二脚本監督「vanpire」 2011年 アメリカ/カナダ/日本
8年ぶりの岩井俊二の作品。アメリカにいる岩井は、映画とどんな向き合い方をしているのだろうか。脚本も演出もすべて英語らしいのだが、ネイティブではない作家が、あえて母国語以外で作品を制作するというのは、何を意味しどんな創作上の策略があるのだろうか。
 ヴァンパイアの映画作品はたくさん作られてきた。また今もかたちをかえて作られ続けけいる。まぜかくも作られ続けているのだろうか、それも西欧において。血を吸うというのは、なんだろう。首筋から血を吸う様子は、たしかに性愛の様子を思い起こさせる。それをして「愛」などと評する論者がいるのは、理解はできる。しかし、ここまで続くヴァンパイア伝説は、どうも踏み込めない感じがしてならないのだが、さて岩井はどうしてヴァンパイアなのかという疑問もあり、渋谷の映画館まで出かけた。
 話は、自殺サイトの投稿者たちからなる。自殺をしたい若者がいる。これはリアルな現代社会の一部分だ。このサイトで集団自殺しようとする人々もいる。これは現実にそのような事件があった。またこれからもあるだろうと個人的には予測している。そこに自殺を手伝おうという人間があらわれる。作品の中では、サイモン(ケヴィン•セガーズ)という男、高校で生物を教えている。彼は自殺仲間として女性に近づく。そして、四肢から徐々に血を抜いて行く方法をとる。ゆっくりと血が抜けて行く、そしてたぶん意識が朦朧となり死に向かって行くのだろう。注射針をつかうので、傷は残らない。岩井は「自分のオブセッションをコントロールできない、リアルな人間の物語」と言う。もちろん、死に向かう者も、死について思う人も多く存在する。それは特別なことではなく、どこかでみな考えたことがあるはずだ。その意味では、この作品は普遍的なテーマを抱えているわけであり、ファンタジーではない。曇天のカナダの田舎町は静かである。感情の起伏が起こらず、どこか平坦に脈打つ心臓のようでもある。劇的なことはおこらず、ただ淡々と何かが過ぎて行く。時であるかもしれない。その延長線上に命があり、その終わりもある。
 血という物質がなければ人は生きられない。血とは何だろう。文学的にいろんなことを血に添付することもできるが、何かそういうことも岩井の意中にはなく、たくさんの問題を提起していることが、作品創作と思っているのかもしれない。そうすれば、作品制作の基本姿勢は私と同じかもしれない。

希望の国


 脚本:監督:園子温 2012 日/英国/台湾
もちろん、3•11が下敷きにあることはいうまでもないが、時は東日本大震災の後の長島県という架空の地域。3•11の数年後という設定は、いつでも第二第三の3•11は起こるのだということを暗示している。酪農家の小野泰彦(夏八木勲)は、痴呆症を抱えた妻智恵子(大谷直子)と、息子夫婦洋一(村上淳)いずみ(神楽坂恵)の四人暮らし。幸せな日常であった。そこに大地震が発生し、村の原発が事故を起こす。
 一瞬にして180度変化してしまうのは、破壊と汚染というフィジカルなものばかりではなく、人間関係や感情があっという間に非情な変化を見せてしまう。それは、人類がその歴史の中でいやと言うほど知らされて来たものではないだろうか。町•村•家族などの関係が壊れて行くのだ。村の役人は、最後に残った康彦と智恵子をなんとしても退避させようとする。それが彼らの仕事であり、国家から命令されたものである。しかし、ふたりは出ていこうとしない。自分が生まれ育った土地であり、たくさんの牛たちがいる生活の場である。思えば、あのテェルノブイリの事故で大量の放射線を浴びたベラルーシの老人達も、自分たちの土地から出て行かなかった。退避させようとする役場の若者は、逆に危険な場所に説得しに行かなければならないことに被害意識をもつようになる。この家族は自分の意識をしっかり持とうとする。しかしそれが周囲から差別される原因になってしまう。私たちは、このようなことを忘れてはいけない。何かを武力的なもので解決しようととすれば、そこには必ずと言っていいほど、のみこまれる普通の人々がでてくる。そしてそれは、ひとりふたりではなく何百何千という国民なのだ。この図式は過去現在そして未来にも続く。
 「希望の国」という題名は、皮肉に思える。たしかに明日への希望をつないで生きようとするヒトの意識は感じないわけではないが、これは希望のではない。個々の人々のまったく個人的な心の覚悟性にささえられた希望である。
 それにしても役者夏八木薫がいい。最初から最後まで、夏八木薫だ。わたしもこんな老人になりたいと思う。