2012年11月3日土曜日
vanpire
岩井俊二脚本監督「vanpire」 2011年 アメリカ/カナダ/日本
8年ぶりの岩井俊二の作品。アメリカにいる岩井は、映画とどんな向き合い方をしているのだろうか。脚本も演出もすべて英語らしいのだが、ネイティブではない作家が、あえて母国語以外で作品を制作するというのは、何を意味しどんな創作上の策略があるのだろうか。
ヴァンパイアの映画作品はたくさん作られてきた。また今もかたちをかえて作られ続けけいる。まぜかくも作られ続けているのだろうか、それも西欧において。血を吸うというのは、なんだろう。首筋から血を吸う様子は、たしかに性愛の様子を思い起こさせる。それをして「愛」などと評する論者がいるのは、理解はできる。しかし、ここまで続くヴァンパイア伝説は、どうも踏み込めない感じがしてならないのだが、さて岩井はどうしてヴァンパイアなのかという疑問もあり、渋谷の映画館まで出かけた。
話は、自殺サイトの投稿者たちからなる。自殺をしたい若者がいる。これはリアルな現代社会の一部分だ。このサイトで集団自殺しようとする人々もいる。これは現実にそのような事件があった。またこれからもあるだろうと個人的には予測している。そこに自殺を手伝おうという人間があらわれる。作品の中では、サイモン(ケヴィン•セガーズ)という男、高校で生物を教えている。彼は自殺仲間として女性に近づく。そして、四肢から徐々に血を抜いて行く方法をとる。ゆっくりと血が抜けて行く、そしてたぶん意識が朦朧となり死に向かって行くのだろう。注射針をつかうので、傷は残らない。岩井は「自分のオブセッションをコントロールできない、リアルな人間の物語」と言う。もちろん、死に向かう者も、死について思う人も多く存在する。それは特別なことではなく、どこかでみな考えたことがあるはずだ。その意味では、この作品は普遍的なテーマを抱えているわけであり、ファンタジーではない。曇天のカナダの田舎町は静かである。感情の起伏が起こらず、どこか平坦に脈打つ心臓のようでもある。劇的なことはおこらず、ただ淡々と何かが過ぎて行く。時であるかもしれない。その延長線上に命があり、その終わりもある。
血という物質がなければ人は生きられない。血とは何だろう。文学的にいろんなことを血に添付することもできるが、何かそういうことも岩井の意中にはなく、たくさんの問題を提起していることが、作品創作と思っているのかもしれない。そうすれば、作品制作の基本姿勢は私と同じかもしれない。