2013年1月27日日曜日

年の始まりに••••Vol.1


さいたま市浦和区のアートプレイスでのグループ展の展示です。2013年1月7日〜15日の期間でした。






















気まぐれレシピ(あんかけ馬鈴薯)


ジャガイモを茹でる。薄切り豚かた肉を細切れにする。ひき肉でもよいだろうが、手間がかかっても、薄切り肉を細切れにした方がいいかんじだ。細切れにした肉を炒め、鶏ガラや醤油やみりんなどで味付けをするが、ほとんど適当。水溶きかたくり粉であんかけにする。
 茹で上ったジャガイモの水分を飛ばし、肉のあんかけをかけて、小ネギを散らす。

木菟(ミミズク)



 天気のいい午前中、なんとなく外の空気を確認しようと思い、マンションのベランダに出た。すると、霧除けの上になにやら生き物がいた。ネコかな?とよく見ると、なんとミミズクだ。えっ、なんでこんなところにミミズク!?たしかにミミズクだ。私の気配を感じて、こっちを見ている。といっても、夜行性なので目は見開いていない。なんだか眠そうに見ている感じだ。私の動きにあわせて、顔が動く。ミミズクは、夕方暗くなるまでそこに居た。そしていつのまにか暗闇に消えて行った。なんだか気になってしかたがない。
家人は、ペットとして飼っていたのが逃げ出したんじゃないか、という。木菟は何かの使者だったのでは、と私は思っている。
 木菟•梟が、なんだか急に身近な存在に感じてきた。森の中に存在するものたち。わたしたちは畏敬の念をきちんと持っていたいものだ。

2013年1月19日土曜日

子供の頃『天井の物語』


 
 体調が悪く、仕事を休んで一日中寝ていた。寝返りをうって横を向くと、四段の箪笥があり、表面が板目だ。ふたたび寝返りをうって天井を見ると、正目模様だ。たぶん天井のそれは、化粧紙を合板などに張り合わせたものにちがいない。ましてリビングなどの天井は、一面白いペンキの塗装だ。
 子供の頃は、あちこちが板目だった。布団に入って、天井を見ると板目模様はさまざまに躍動している感じだ。そしてところどころに節目がある。その模様は、さまざまなものを連想させた。人の顔に似ていたり、川の流れのようだったり、不思議な動物のようだったり。そして突然その板がガタリと開いて、恐怖のミイラが覗き込んだらどうしよう。などとあらぬ空想に耽って眠れなくなってしまうことがよくあった。天井には無数の物語があった。そんなことを思いながらあちこちを見回してみると、最近の建築はなんだか味気ないものに思えてくる。
 
*『恐怖のミイラ』1961年に日本テレビ系列で放送されていたドラマ。えらい怖かった。足の関節が動かない状態で歩くのだが、よく真似をして遊んでいた。とくに、屋根裏からいきなりのぞく顔は怖かった。

2013年1月14日月曜日

中村正義『父をめぐる旅』


  『父をめぐる旅 異才の日本画家•中村正義の生涯』監督:近藤正典•武重邦夫
昨年練馬区立美術館で『日本画壇の風雲児 中村正義新たなる全貌』展を見た。そのときの感動がまだ残っている。今回、東京都美術館ホールで上映されたドキュメンタリーは、この画家の生きざまを余すところなく映し出しており、あらためて私自身の作家としての姿勢を問われるような感じがした。思えば、画家なる存在は古典的には権力と密接につながっていたことは事実である。ダ•ビンチ、エル•グレコ、フェルメール、などなど貴族や教会とつながりを持たなければ仕事にならない。日本の場合でもそうだ。しかし、近代は画家が権力から離れて、自分の精神を獲得して行く方向に向かう。したがって、そこには貧乏がつきまとう、近代精神を獲得することの代償かもしれない。日展に巣くう権力と戦うこの作家は見事である。正義は言う、「国家権力によって価値がある美術はない」
 現代の作家たちはどうであろうか。中村正義は写楽の研究者でもあったが、研究の秘書を務めた女性が言う、ある日友人と出かけて行った中村正義の後ろ姿は、「たえがたく存在しがたい後ろ姿だった。」と。孤独を通り越した、なんとも名状しがたい絶望的なものだったらしい。52歳で反骨の鬼才は生涯を閉じた。 

2013年1月3日木曜日

松本竣介


 『生誕100年 松本竣介展』
  2012年11月23日〜2013年1月14日世田谷美術館

 好きな作家だ。詩情あふれる画面だが、確固たる意志を示している。もちろん、戦争という時代が濃く影を落としていたからに違いない。
 松本竣介(1912〜1958)36年の短い人生。初期の頃は様々にスタイルが変化した。ルオーのようでもあり、人物などは時として藤田嗣治の描き方を思い起こさせるものもある。1937年『郊外』(96.6×130.3)などは、青•緑を中心にした作品。1940年『郊外風景』(73.0×91.0)では構図も自由になり、樹木の処理などが何か象徴的な感じに見える。太平洋戦争以前は、風景と人物が溶け合ったような画面であり、詩情あふれるそれはシャガールに似ていなくもない。しかし、戦争の時期は建築物が多くなり、黒く太い線で画面が区切られることが多くなる。人物は点景として、ポツンとそこに登場する。それは意志を持たない影のように孤独だ。
 今回、私はサインと年代が気になって仕方なかった。サインは活字のように緻密に書かれている。松本竣介の人間性を表しているようにも見えてる。そしてサインとともにそこに記されている制作年が気になる。1940年9月『街(自転車)』(73.0×91.0)には「15.9」とある。つまり、昭和15年9月制作ということである。ところが、同じ1940年2月の『黒い花』(92.0×65.0)には「××××」と記され、1940年9月『構図』(37.5×45.5)は「2600.9」とあり、1940年8月『都会』(121.0×154.5)には「2600.8」とある。1940年の作品に「15」とあるのは少なく、圧倒的に「2600」である。1940年の作品だけである。「2600」の数字は、紀元2600年のことである。皇紀2600年の行事が大々的に催された年である。「2600」と制作年を記すのは、時代精神が反映してのことであろうか。また『黒い花』の「××××」は、そう記すことへの逡巡があったのだろうか。この時代や、松本竣介の心を読み解く糸口としてなかなか興味深い。ちなみに、この年の9月27日に、日独伊三国同盟が締結され10月12日大政翼賛会が発会された。