2018年11月21日水曜日

「辰野登恵子 オン・ペーパーズ」





 辰野登恵子、1950年生まれ2014年逝去。画歴の上では、挫折のようなものは微塵も感じられない。現役で東京芸大に進み、その後院を終了。学生時代から発表を続け、日本国家からも賞を受け、美術大学の教授として任を果たした。
辰野の作品は、70年代と80年代と90年代以降と三期に分けることができる。シルクスクリーを使った罫線の作品で発表した70年代。たしかにこの時代は版画表現が大きな波となっていた。日本のとんがった若者は、アンディ・ウォーホールやロバート・ラウシェンバーグなどアメリカ美術の猛攻撃にさらされていた。絵画の創造性というより、リアルな現実(写真)が絵画上に表出する。写真表現と違うのはペインターの行為が絵画表面に叩きつけられる感じであっただろうか。版画の概念を問う作家もたくさんいた。粗雑な写真製版は若干手仕事の痕跡もあり、たしかに魅力があった。システムとしてリアルな罫線は写真製版で定着すると簡便だ。手書きだとアートになってしまう。アートにさせないためにも写真製版は有効だと思われる。この時代の辰野の作品は、時代を敏感にとらえたものであった。描くのではなく、何かを記す行為、という意味合いが大きい。李禹煥の影響も見れないではない。
 80年を迎えると、手が動きだす。つまり線が出てくるのだ。なにを意味するのかというと、絵画の平面性を意識させることとなった。つまり、行為ということから、絵画性に以降したように思えるのだ。色の塗り方も、手の痕跡を現れてくる。
 90年代以降はどうであろう。画面上に物が現れてくる。つまり、抽象表現主義でもなく、アクションでもなく、丁寧な描写に以降する。物は現実ではないだろうが、現実の物体を想像させる。そのような画面である。形ある何物かが画面の全面にあり、背景が描かれる。方法は具象絵画の描画方法である。辰野自身の方向性としては、日本的色彩とは何かということに関心が向かう。行為から描画に向かう。戦後の現代美術(もちろん勝戦国メリカが主導)が、描画から離れ、行為の一面を獲得するにあたって、その総括がいまだなされない恨みがあるが、辰野の三つの流れは、日本における現代美術のいまの状況を示しているように感じる。我々は「現代美術」と簡単に言葉にするが、現代美術とは一体なんなのだろう。たしかに、美術とうものは、歴史的に権威権力とつながっていた時代も長い、いや現代においても強固なものとして存在する一面もあるだろう。それに対してアンチの姿勢を示し、アバンギャルトの道を突き進む。そんな抵抗意識が現代美術にあった。それは「問う」という姿勢が基本になっていたと思う。それはなにも美術ばかりではなく、世相も含めて、戦後の歴史があった。現代美術が商品化され、カワイイの文化が席巻している現代。じっくり考え分析する必要がある。話が横道の逸れてしまった。