2011年12月11日日曜日

「新聞」から「新聞紙」へ


 先日おこなわれたグループ展のオープニングのときである。それぞれが、いささかお酒がはいってのことである。ある人が、最近になって新聞購読をやめたらしいのだが、「新聞は購読するもんだということについて、どうなのか」ということを言っていた。そのとき私は、新聞紙としての効用をまことしやかに述べたのだが、後になって考えてみると、その某氏は現代に於いての情報ツールとしての「新聞」の役割のことを言っていたのではないかと、はたと気がついたのだが、後の祭りであった。
 新聞は情報として利用したあと、「新聞紙」としてさまざまな場面で利用できる。「しんぶんし」という言葉は前から読んでも後ろから読んでも「しんぶんし」である。つまり回文であり、まさにそのように「このようにでも」「あのようにでも」利用できるものである。「雨で濡れてしまった革靴に新聞紙を丸めていれる」「湿気対策として畳の下に敷く」「焼き芋を包むことができる」「引っ越しのときに食器を包むことができる」「木版画家が紙を湿らすときに新聞紙を濡らして使う」「子供のときに弁当箱を新聞紙で包んだ」「五月の節句で新聞紙を折って兜を作ることができる」「私立探偵が尾行のときに顔を隠すために新聞を読むふりをして顔を隠す」「冬の寒いときに身体に巻き付けて寒さをしのぐ」などなど。道具としての新聞紙は多いに役に立つものである。うだうだ考えていたが、しばらくしてこれも自分のセンチメンタルに過ぎないことに、またまたはたと気がついた。
 だいたいにおいて、畳の住宅が少なくなっているので、畳の下に敷くなどということも今ではない。住宅の構造も床下は土でなく、湿気がでないように「ベタ基礎」でコンクリートを基礎全面に流し込んでしまう。新聞紙の兜をかぶってチャンバラをする子供も今はいない。昔のようにアルマイトの弁当箱はなく、みんなきちんとパッキンで密封されてしまうので、弁当から汁がこぼれることも今はない。ホームレス以外は新聞紙を身体に巻き付けたりしない。いや、いまはそういうこともないかもしれない。などなど、物としての新聞紙が活躍する場面は、文明が進化するにしたがって圧倒的に少なくなってきた。新聞の購読数は各社とも激減しているのも事実である。