20年来気になっていることがある。それは「若紫」に登場する「なにがし僧都の、この二年籠もりはべる」「僧坊」を光源氏が垣間見する場面である。物語の内容は、広く知られているので、すぐに思い浮かべることができる人も多いだろうと思う。光源氏が熱病にかかり、北山の聖のもとにでかけて行ったときに見つけた家をのぞきみし、藤壷によく似た少女を発見する話である。
「人々は帰したまひて、惟光朝臣とのぞきたまへば、ただこの西面にしも持仏すゑたてまつりて行ふ尼なりけり」の構図を考えてみたい。古くは、この「西面(にしおもて)」の語釈に「西向きに開け放たれているので、西日が部屋の奥まで差し込んでいる」というものが多かったように思う。物理的に、源氏にとってよく見えることに基本があるからだろう。最近の語釈には、「西方浄土を臨んで勤行している」(語句解釈:倉田実『源氏物語の鑑賞と基礎知識』至文堂)とある。これは20年来私が思っていることなので、間違いではなかったと安心している。しかし、私はもう少しこの場面にこだわりをもっている。尼は「持仏」を西側に置いて勤行している。その前方に「光源氏」がいて、その遥か向こうに西方浄土があり、そして太陽があるのだ。つまり、太陽•西方浄土•光源氏•持仏が、一直線上に重なっているのである。尼君の位置から、光源氏は光輝く存在、浄土の存在としてそこに現れているのである。だからこそ「ひかる君」光源氏である。また、「僧都あなたより来て」「世を棄てたる法師の心地にも、いみじう世の愁へ忘れ、齢のぶる人の御有様なり。いで御消息聞こえむ」と言って出て行く場面がある。光源氏は、まさに「寿命が延びる」ほどの存在であると言うのである。これは、西方浄土におられる存在であることを物語っているように思えてならない。紫式部は、この「若紫」を最初に書き、周囲に評判になり書き続けて行ったと言われる。そのことも考え合わせると、まさに光源氏の登場は仏とも言える存在として描いたのではないかと思えるのである。式部は意識してこの構図を考え設定した。私にはそう思えて仕方がない。
やがて源氏は、尼君が行く末を案じてならない少女を、この環境から見事に救い出してみせる。近代的な感覚では犯罪者であるが、古典的な感覚では救世主と言えなくはないだろう。