2011年11月6日日曜日

砂の駅

『砂の駅』(世田谷パブリックシアター•11月3日〜6日)
         原作:太田省吾 演出構成:キム•アラ
 故太田省吾の作品。伝説となった「転形劇場」の名優である品川徹、大杉漣、鈴木里江子と韓国の俳優が出演。日韓共同制作。
 『駅』とは何か。我々が通常利用している駅のことではない。この芝居における駅というのは、人がそれぞれの人生の中で転機をむかえたり、それぞれが進んで行く分岐点にようなもの、あるいは「場」の比喩である。そして、太田省吾は、この舞台に「砂」をなぜえらんだのか。まずこのことについて考えてみたい。演劇という形式上の事を考え合わせると、舞台演劇では、砂の上に役者が立つということは、不安定きわまりないことである。役者が作者や演出家の意図を忠実に再現するためには、砂は御法度である。砂は、役者の身体を不安にさせる。役者の姿勢が不安定で、どこでバランスをくずすかわからない。演出家が役者を砂の上に立たせるということは、自らの演出にアンチの姿勢を盛り込むことであり危険である。太田があえてそのように設定したということは、自らの方法を自らが否定してみせたことに他ならない。そんな極めて前衛的な演劇方法を今回韓国のキム•アラが演出した。
 この芝居に底流するものは、男女の性愛であるようだ。若い世代の出会い、中年の男女のありよう、高齢の世界。そして、老人としてひとりになったときのこと。この筋に沿って時間は流れて行く。そして、このさまざまな感情模様は、砂に記憶されて行く。誰もが経験するように、砂は人々の足跡を微細に刻印する。もちろん風や波によって瞬間的になくなってしまうのだが。太田は、この移ろいやすい現実世界を、このような演出で表現したのだ。この芝居の最終シーンに、品川徹が老いた旅人の風体であらわれる。人生の旅を続けた達人のようでもある。亡き妻?との出会いのような場面は圧巻であった。
 登場人物は一様に砂の中で戯れる。手でかき集めるしぐさは、まるでこのはかない人生のひとときを刻印する砂を愛おしむようにさえ見える。手からこぼれ落ちる砂は、人が生きる時間というものを表しているように見える。
 キムはの演出は、よりスマートにそして官能的に見える。『砂の駅』に新しい魂を吹き込んだ。この上演は、現代日本の演劇史に確実に新たな足跡を残したに違いない。砂に残した足跡は、まさに演劇史に刻まれたのである。