監督:脚本/マイケル•フランコ メキシコ 2012年
原題はAFTER LUCIA.「ルシアの後」いや、「聖ルチア亡き後」と理解した方がいいのかもしれない。邦題の「父の秘密」というのは、やはり理解しがたい。
男の妻、娘の母であるルシアを交通事故で失った、夫と娘のその後の状況を描いた物語である。母は娘のおこした事故で命をなくした。それを犠牲というならば、そのことを殉教者聖ルチアと重ねることができる。犠牲というのは生きる人間にとっては極めて辛い。前に進むためには、やはりそのことを忘れて、あるいは物語を組み直して、新たに踏み出さなければならない。
しかし、父親の選択は新たな地獄であった。娘は転校先の学校でいじめにあう。彼女はその不条理な状況に抗うことなく、ただひたすら耐え抜く。そしてラストシーンの父親の報復。その報復にたいして、邦題「父の秘密」がつけられたのだ思うが、この作品のテーマはそれにあるのではない。この親子は、とにかくなす術もなく耐える。ただ耐えている。この「耐える」ということになにかしら意味があるのだろうか。この現実世界、あるいは現象世界は、不条理に満ちている。善はいつでも善でありつづけることはできなく、悪はいつまでも悪であるわけではない。「神の愛」とはなんだろう。「慈愛」が真のものならば、この世界は理屈に合わない。そこで生きる人間の理解の仕方として、「修行としての苦しみをあたえたもう、神」が存在する。あるいは処世の方便として意識に内在させる。ということになるのかもしれない。
父ロベルト(ヘルナン•メンドーサ)も娘アレハンドラ(テッサ•イア)も自分が置かれた状況を、だれに話すでもなくただそれを受け入れている。口が重い?どうだろう、その表情はどこか修道士のような無表情を感じる。見る者は、こうすればいい、ああすればいい、という気持ちが起こって来る。でもスクリーンの中の親子は、会話もなく、ただこの世に身を処しているようにしか見えない。ルシアが生きていたころには、光があった。しかし、いまはもうその光は失われた。娘は、その世界にもどろうとする。父にひとことも言わずに、ルシアのいない元の家に行くため、バスに乗り込んでしまう。父親はいじめの首謀者を自らの手で処刑する。最後にみせるロベルトの表情は、最後のジーザスのような表情だった。ロングショットで語るこの作品は、奥深い。
(2013•11•9 ユーロスペース)