2013年6月4日火曜日

ベーコンBACON

 フランシスコ•ベーコン展(2013/3/8〜5/26国立近代美術館)
 その昔、美術出版社から『みずゑ』という雑誌が発刊されていた。ある日、まだ青年だった私の目に強烈に飛び込んで来た男の写真があった。画布を前にした男がふりかえるようにこっちを見ていた。射るような目、クルーネックのセーターを着、細いパンツにスエードのデザートブーツを履いていた。そして、この男の名前はフランシスコ•ベーコン。強烈にクールだ。私は『みずゑ』の表紙を飾るこの男に魅せられてしまった。作品は知らない。15世紀から16世紀にかけてイングランドで活躍し、「知は力なり」という言葉でよく知られるあの形而上学の哲学者と同名だ。
 その後、機会ある度に私はベーコンの作品をさがすことになった。そして今回の大きな回顧展は私にとってこのうえない喜びとなった。ベーコンの作品は、人物がほとんどだ。いや、人物のようなものといった方がいいかもしれない。
 人物は人物ではない。人間は名付けられたものを名付けられたものとして見て、そして考える。前提は常に名付けられたものである。認識というものはつねにここからはじまる。それはジグゾーパズルのように、あるべきところにあるべきピースを埋め込んで行くように。例えば人体らしきものが描かれてあると、人々はそれを人体として見ようと努力する。現実の身体を身体として認識するためにはそれでいいだろう。では、ベーコンにとっての人体というのはいったい何なのだろうか。しかし、こんな問いも無駄なのかもしれないのだが、作品から受ける印象は強い意志を感じる。極めて意図されたものであるように思えるが、もしかしたら存外なにも考えていないかもしれない。作品ができてからそれをきっかけとして思考するのかもしれない。身体は身体として描かれるのではなく、あくまでも、「そのようなもの」として提示される。そのことにより、現実の身体とは何なのか、という新たな問いが生じる。人間の現存在は、身体を持っている。あるいは身体を得ている。存在の普遍的な前提として、身体性がある。したがって、身体を喪ったときが死というものである。そこで、何が身体でありどこまでが身体なのかということを突き詰めて行くと、実存主義に大きく傾いて行くことになる。特定の個を持たないヒトに似たうごめく何かが、画布の上に描かれている。美しくもなく、ただ物体としてそこにある。なぜかとてつもなく危うい。椅子に座している枢機卿のような人物も、枢機卿という符号が消えて、枠による閉ざされた人として見ることができる。逆に言うと、閉ざされているものが枢機卿であるのならば、すべての人間は皆一様に閉ざされているということを意味する。そこから、社会というものはそもそ人間自身を閉ざしてしまうものという認識すら導きだしてしまう。椅子に座している枢機卿を描いているうちに、肘掛けに載せている腕が、スフィンクスのようにも見えて来て、スフィンクスに興味が出て来る。つまり、描くという行為から、意味付けが連鎖して行く。しかしながら、全てを意味論として見て行くことにも重大な落とし穴が隠されているようにも感じてしかたがない。絵が開くというのはベーコンにとって、答えが予測されない実験のようなものだったのかも知れない。そのような見方をすれば、ベーコンは完全に抽象作家である。見る者のガラスの映り込みを意識していたのであれば、ことさらそう言えるのではあるまいか。
 しかし、作品にジョージ•ダイアーが出てくるところは、さすがにベーコンは科学者ではなく画家そのものであったに違いない。