以前iPadのアプリで、全国のコラムを読んでいると書いた。もちろんアプリにあるコラム全部を毎日読むわけではない。限られた一日の中では、数編程度である。
先日大雪が降った日の朝、雪かきをしていたところ腰を痛めて、大切な休日を一日寝て過ごさなければならないハメになってしまった。そんなこんなで蒲団に寝そべりながら、全部のコラムを読んだ。書き手の様子が見えて面白い。なかでも、北海道新聞の『卓上四季』と東京新聞の『筆洗』がいい。どちらもいきなり本題に入ることがない。かならず何か面白い伏線から入る。それがじつに見事である。以前朝日新聞を購読していたが、『天声人語』が面白くなく、文章のレベルも格段に落ちて来たのにうんざりして、購読をやめてしまった。中高生に向けて、『天声人語』書き写しというのがあるが、こんな文章を書き写して何になると奮然としたことがあった。
見識の高さと、文章そのものに力量を感じる『卓上四季』と『筆洗』。反面、沖縄の八重山日報『金波銀波』は極めて右翼的な見識の人が筆をとっているようだ。おもしろくない。
2014年2月25日火曜日
2014年2月22日土曜日
金曜の夜
このところ落語を聞きに行くことが多くなった。金曜の夜、東銀座にある結婚式場のホールに出かけた。そこでは定期的に落語会を開催している。今回は「如月の三枚看板 喬太郎•文左衛門•扇辰」という公演。橘家文左衛門は「転宅」、まぬけな泥棒の話(古典)。柳家喬太郎は「派出所ヴィーナス」、池袋駅前の派出所を舞台とした、ハチャメチャな話(新作)。入船亭扇辰は「匙加減」、遊女を身請けしようとする若医者と元締めのいざこざにたいする大岡裁き(古典)。という演目。さすがに実力者の三人である。喬太郎の後に登場の扇辰は、「前にあんな話(喬太郎)をやられたら、自分は何をやろうか考えてしまう」と枕で語っていた。そして噺はじめたのが「匙加減」、この噺はもともと講釈らしい。最後の落ちを迎え、噺が終わったところで、ホールのデジタル時計がぴたりと21時を示した。終了予定時間が21時とあったので、見事にピッタリだったのだ。つまらないことかもしれないが、それも見事だと思った。•••偶然かもしれないが、「手練だからこそ」である•••
どなたかのブログに、公共施設は時間厳守でやたら細かいことを言われているらしいので、とあったが、私は単純にスゴイなあ、と思うばかりである。
冷える如月廿日あまりひと日、近くの「萬福」で軽い食事をして帰途についた。
どなたかのブログに、公共施設は時間厳守でやたら細かいことを言われているらしいので、とあったが、私は単純にスゴイなあ、と思うばかりである。
冷える如月廿日あまりひと日、近くの「萬福」で軽い食事をして帰途についた。
2014年2月18日火曜日
若者
2月1日、新宿の「損保ジャパン東郷青児美術館」で開催されている美術展「クインテッドー五つ星の作家たち」(児玉靖枝•川田祐子•金田実生•森川美紀•浅見貴子)の企画展を見ようと思い、新宿東から西に向けて歩いていた。交差点にさしかかったとき、ちょうどデモ隊が横切るところであった。新宿だから大久保も近い、ということが一瞬頭をよぎり、またヘイトスピーチでもしているのだろうかと、いささか不快感を抱きながら赤信号を眺めていた。
しかし、私の目に飛び込んだものは、「特定秘密保護法に反対する学生デモ」という文字であった。デモを組織していたのは、学生だった。それも秘密保護法反対の若者たちだった。歩道で女子学生がビラを配っていたので一枚もらう。デモを先導するトラックの荷台にはスピーカーが設置され、ラッパーが叫んでいた。
「I say 国民 You say なめんな 国民なめんな 国民なめんな I say憲法 You say 守れ憲法守れ 憲法守れ」
こんな若者たちがいるのだから、まだまだ大丈夫だ。と思ったと同時に、自分は何をしているのだろうかという、自戒の念に襲われた。
損保ジャパンの美術館。金融資本主義社会の大企業だ。五人の女性たちの作品は、それぞれに落ち着きを見せていた。その落ち着きは何なのだろうかと思ったのだが、ひょっとすると、「評価された先にあるおとなしさ」という感じがした。忌憚のない意見を言えば、児玉靖枝にしたところで、枝を抽象的に描いていても、そこに枝という概念から解き放たれていない感じがし、鎖に繋がれているように思えてならなかった。(それにしても、最近「枝」をモチーフにすり作家が目立つ)かつての黄色の自由なストロークのような作品の力強さがない。もちろん作家の意図するものがあるのだろうと思うが。「求道の先に見える境地」ではない。まだまだ毅然として戦わなければならない、人たちだ。もちろんその戦いには気炎を吐いたり、毒をまき散らしたするような奇抜さは必要がないのだが。
しかし、私の目に飛び込んだものは、「特定秘密保護法に反対する学生デモ」という文字であった。デモを組織していたのは、学生だった。それも秘密保護法反対の若者たちだった。歩道で女子学生がビラを配っていたので一枚もらう。デモを先導するトラックの荷台にはスピーカーが設置され、ラッパーが叫んでいた。
「I say 国民 You say なめんな 国民なめんな 国民なめんな I say憲法 You say 守れ憲法守れ 憲法守れ」
こんな若者たちがいるのだから、まだまだ大丈夫だ。と思ったと同時に、自分は何をしているのだろうかという、自戒の念に襲われた。
損保ジャパンの美術館。金融資本主義社会の大企業だ。五人の女性たちの作品は、それぞれに落ち着きを見せていた。その落ち着きは何なのだろうかと思ったのだが、ひょっとすると、「評価された先にあるおとなしさ」という感じがした。忌憚のない意見を言えば、児玉靖枝にしたところで、枝を抽象的に描いていても、そこに枝という概念から解き放たれていない感じがし、鎖に繋がれているように思えてならなかった。(それにしても、最近「枝」をモチーフにすり作家が目立つ)かつての黄色の自由なストロークのような作品の力強さがない。もちろん作家の意図するものがあるのだろうと思うが。「求道の先に見える境地」ではない。まだまだ毅然として戦わなければならない、人たちだ。もちろんその戦いには気炎を吐いたり、毒をまき散らしたするような奇抜さは必要がないのだが。
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