2014•5•18
平塚市美術館で開催されている『石田徹也 展』に行く。気温が高く、人々も風景も夏の装い。駅前でパスタと白ワインで昼食、そして美術館へ。石田徹也とは何者か。現代社会の風刺か、人間という存在の危うさか、押しつぶされそうな人間存在へのレクイエムか。テーマは明確だ。しかし、絵という表現は、微妙に多様性を孕む。極めて静寂な画面である。その静寂さは、現代人のある種の諦念を表しているようにも思える。作品の登場人物は、ほとんどネクタイ姿の社会人だ。高度資本主義のなかの会社員。
私は、『深海魚』(2003)という作品が好きだ。窮屈なまでに真面目に追求する石田が、どこか突き抜けた心境に一瞬たどり着いたようにも思える。重層的な画面が妙に心地よい。晩年になればなるほど、外と内、内部と外部という概念が画面に表出してくる。『満潮』(2004)などの画面には渚と病院ベッドとカーテンが描かれる。これらの装置は、確実にあっちの世界、こっちの世界というイメージだ。本人が求めて描いているのだが、彼ほど自分の内面がむきだしになってくる作家もめずらしいかも知れない。作品がまるで予言者のように語りかけて来る。
瞬間的にわたしは思った。「彼の死は無意識の自殺」だと。これを追求して行くと、戻れない地点まで踏み込まざるを得なくなる。多くの作家は、どこかで自分を引き戻す。しかし、極限で、あるいは極めてボーダーなところで、ぽっかりと開いた虚無の空間に入り込んで戻れなくなることがあるだろうと私は実感している。彼はそのようなタイプの人間だったに違いない。もし生存していたならば、抽象的な表現に興味を抱くようになったかも知れない。
早朝の踏切事故で31年の人生を終えた。
美術家彦坂尚嘉は、かれの作品に「第16次元崩壊領域」が見られるという。確かに彦坂特有の言説だが、そうだろうと思う。石田徹也はいい作家だ。
私事であるが
「回転ドアの社会人」という題名のリトグラフを制作したことがある。22歳ぐらいのときだったと思う。回転ドアにへばりついたスーツ姿の現代人を描いたものだった。企業戦士の悲哀を、生意気にも感じていた。そんな私には、石田の作品がどこか懐かしいような感じもする。しかし、その後わたしは、この日本の高度経済成長の立役者である企業戦士を悲哀をもって語る事はしなかった。その人たちの忍耐と努力によって、戦後日本の復興があったのだと理解してからは。