最近寝る前に蒲団のなかでコラムを読んでいる。各新聞のコラムなので気軽に読み切ることができる。本を読むのと違って、液晶自体が明るいので、電気を消したままでいい。眠くなったらそのままiPad miniを放置してしまえばいい。
「たてコラム」というアプリがあり、これがなかなか便がいい。北海道新聞の「卓上四季」• 函館新聞の「臥牛山」• 福島民報の「あぶくま抄」• 琉球新報の「金口木舌」• 八重山毎日新聞の「不連続線」など、それぞれに興味深い。地域の情況や世界への視線など論点はじつに多様だ。教えられることがたくさんある。知らなかった地域の状況などリアルタイムで知ることが出来る。『日台漁業協定』に対する不満爆発が八重山諸島などの漁協で起こっていることに、コラム「不連続線」で知らされた。いろいろなことが安倍内閣の主導で行われている。台湾に譲歩した水域で決めたらしい。それは中華民国と中国が連携して尖閣諸島に実力行使している現在、中国を牽制する意図があるということだ、実際中国が資金提供して台湾の活動家を動かしているということである。つまり日本政府は台湾と中国を仲間割れさせようとしているらしい。
全国の主要なコラムを読んで様々に勉強させていただいている。
思えば、「ハーグ条約」を批准したのも最近のことだ。米国が強烈にプレッシャーをかけてきたらしい。これについても深く知らなければならないと実感している。
2013年7月5日金曜日
2013年6月30日日曜日
嘆きのピエタ(PIETA)
監督:脚本 キム•ギドク 2012年 韓国
キャスト:ミソン:チョ•ミンス
:ガンド:イ•ジョンジン
予告編を何度か観て、自分の好みではないのでは、と思っていた。ヴェネチア映画祭のグランプリ受賞というのは、情報として知っていた。また、この映画祭には北野武も出品していたことも。絶対に観たいという気持ちで映画館に入ったわけではなかった。
しかし、見事に私の心をこの作品は鷲掴みにしてしまった。ガンド役のイ•ジョジンがすばらしい。この孤独感は圧倒的だ。なにかを覚悟したようなイ•ジョジンの表情は、そう易々とは出来ないだろうと思う。そして、何と言ってもキム•ギドクの本と演出の凄さである。確かに残酷な場面はたくさんあるが、極めてスリリングであり、象徴性を宿している。「人の心」とは、そして「慈悲」とは、我々はこの世の深い闇の底に下りていかなければ、その本質をつかむことはできないのかも知れない。そう思うと、キムは確実にその闇のとば口にいるのかも知れない。ラストシーンが心を締めつける、そしてエンドロールとともに流れるパンソリが耳に残った。北野には太刀打ちできない。
ル•シネマで、私の誕生日6月15日に観た。
キャスト:ミソン:チョ•ミンス
:ガンド:イ•ジョンジン
予告編を何度か観て、自分の好みではないのでは、と思っていた。ヴェネチア映画祭のグランプリ受賞というのは、情報として知っていた。また、この映画祭には北野武も出品していたことも。絶対に観たいという気持ちで映画館に入ったわけではなかった。
しかし、見事に私の心をこの作品は鷲掴みにしてしまった。ガンド役のイ•ジョジンがすばらしい。この孤独感は圧倒的だ。なにかを覚悟したようなイ•ジョジンの表情は、そう易々とは出来ないだろうと思う。そして、何と言ってもキム•ギドクの本と演出の凄さである。確かに残酷な場面はたくさんあるが、極めてスリリングであり、象徴性を宿している。「人の心」とは、そして「慈悲」とは、我々はこの世の深い闇の底に下りていかなければ、その本質をつかむことはできないのかも知れない。そう思うと、キムは確実にその闇のとば口にいるのかも知れない。ラストシーンが心を締めつける、そしてエンドロールとともに流れるパンソリが耳に残った。北野には太刀打ちできない。
ル•シネマで、私の誕生日6月15日に観た。
気まぐれ、野郎レシピ(キムチ鍋ダァ〜)
私の定番、「キムチ鍋」です。夏でも冬でも、材料さえあれば作ります。頻繁に作っているので慣れてきて、最近はかなりいいかげんです。
レシピ:豆腐•白菜キムチ•長ネギ•味噌•豚バラ肉•ゴマ油
ゴマ油を鍋に入れ、バラ肉•長ネギの順番で炒め合わせる。キムチを入れて豆腐。後は水を入れて適当な時間がきたら、味噌で味を決める。ただそれだけ。お酒を入れてもよし、他の具材をいれてもよし、豆板醤で辛みを高めてもよし。まあ、チャンプルーと言う感じ大丈夫です。食べ終わった後の汁にご飯を入れて食べると、これがまた美味しい。
反省•••ちょっと緑が欲しいですね。パラパラっと葉物をこまかく切って最後に散らしても いいかも知れない。こんどはそうしよう。
2013年6月12日水曜日
気まぐれレシピ(サルサ的パスタサラダ)
レタス••••••適当 トマト••••••一個 大葉••••••二枚みじん切り
ニンニク••••••二カケラみじん切り 塩•••適当 レモン••••半個
パスタ••••適当
パスタを茹でる。トマトざく切りにし、大葉とにんにくをみじん切りし、レモン汁
をかけ、塩で調整しながらパスタと和える。レタスをちぎって、完成。
反省•••味にパンチがない。オリーブ油などを使ってもいいかもしれない。ただ、塩
を多めにするのは避けたいものだ。
2013年6月4日火曜日
ベーコンBACON
フランシスコ•ベーコン展(2013/3/8〜5/26国立近代美術館)
その昔、美術出版社から『みずゑ』という雑誌が発刊されていた。ある日、まだ青年だった私の目に強烈に飛び込んで来た男の写真があった。画布を前にした男がふりかえるようにこっちを見ていた。射るような目、クルーネックのセーターを着、細いパンツにスエードのデザートブーツを履いていた。そして、この男の名前はフランシスコ•ベーコン。強烈にクールだ。私は『みずゑ』の表紙を飾るこの男に魅せられてしまった。作品は知らない。15世紀から16世紀にかけてイングランドで活躍し、「知は力なり」という言葉でよく知られるあの形而上学の哲学者と同名だ。
その後、機会ある度に私はベーコンの作品をさがすことになった。そして今回の大きな回顧展は私にとってこのうえない喜びとなった。ベーコンの作品は、人物がほとんどだ。いや、人物のようなものといった方がいいかもしれない。
人物は人物ではない。人間は名付けられたものを名付けられたものとして見て、そして考える。前提は常に名付けられたものである。認識というものはつねにここからはじまる。それはジグゾーパズルのように、あるべきところにあるべきピースを埋め込んで行くように。例えば人体らしきものが描かれてあると、人々はそれを人体として見ようと努力する。現実の身体を身体として認識するためにはそれでいいだろう。では、ベーコンにとっての人体というのはいったい何なのだろうか。しかし、こんな問いも無駄なのかもしれないのだが、作品から受ける印象は強い意志を感じる。極めて意図されたものであるように思えるが、もしかしたら存外なにも考えていないかもしれない。作品ができてからそれをきっかけとして思考するのかもしれない。身体は身体として描かれるのではなく、あくまでも、「そのようなもの」として提示される。そのことにより、現実の身体とは何なのか、という新たな問いが生じる。人間の現存在は、身体を持っている。あるいは身体を得ている。存在の普遍的な前提として、身体性がある。したがって、身体を喪ったときが死というものである。そこで、何が身体でありどこまでが身体なのかということを突き詰めて行くと、実存主義に大きく傾いて行くことになる。特定の個を持たないヒトに似たうごめく何かが、画布の上に描かれている。美しくもなく、ただ物体としてそこにある。なぜかとてつもなく危うい。椅子に座している枢機卿のような人物も、枢機卿という符号が消えて、枠による閉ざされた人として見ることができる。逆に言うと、閉ざされているものが枢機卿であるのならば、すべての人間は皆一様に閉ざされているということを意味する。そこから、社会というものはそもそ人間自身を閉ざしてしまうものという認識すら導きだしてしまう。椅子に座している枢機卿を描いているうちに、肘掛けに載せている腕が、スフィンクスのようにも見えて来て、スフィンクスに興味が出て来る。つまり、描くという行為から、意味付けが連鎖して行く。しかしながら、全てを意味論として見て行くことにも重大な落とし穴が隠されているようにも感じてしかたがない。絵が開くというのはベーコンにとって、答えが予測されない実験のようなものだったのかも知れない。そのような見方をすれば、ベーコンは完全に抽象作家である。見る者のガラスの映り込みを意識していたのであれば、ことさらそう言えるのではあるまいか。
しかし、作品にジョージ•ダイアーが出てくるところは、さすがにベーコンは科学者ではなく画家そのものであったに違いない。
その昔、美術出版社から『みずゑ』という雑誌が発刊されていた。ある日、まだ青年だった私の目に強烈に飛び込んで来た男の写真があった。画布を前にした男がふりかえるようにこっちを見ていた。射るような目、クルーネックのセーターを着、細いパンツにスエードのデザートブーツを履いていた。そして、この男の名前はフランシスコ•ベーコン。強烈にクールだ。私は『みずゑ』の表紙を飾るこの男に魅せられてしまった。作品は知らない。15世紀から16世紀にかけてイングランドで活躍し、「知は力なり」という言葉でよく知られるあの形而上学の哲学者と同名だ。
その後、機会ある度に私はベーコンの作品をさがすことになった。そして今回の大きな回顧展は私にとってこのうえない喜びとなった。ベーコンの作品は、人物がほとんどだ。いや、人物のようなものといった方がいいかもしれない。
人物は人物ではない。人間は名付けられたものを名付けられたものとして見て、そして考える。前提は常に名付けられたものである。認識というものはつねにここからはじまる。それはジグゾーパズルのように、あるべきところにあるべきピースを埋め込んで行くように。例えば人体らしきものが描かれてあると、人々はそれを人体として見ようと努力する。現実の身体を身体として認識するためにはそれでいいだろう。では、ベーコンにとっての人体というのはいったい何なのだろうか。しかし、こんな問いも無駄なのかもしれないのだが、作品から受ける印象は強い意志を感じる。極めて意図されたものであるように思えるが、もしかしたら存外なにも考えていないかもしれない。作品ができてからそれをきっかけとして思考するのかもしれない。身体は身体として描かれるのではなく、あくまでも、「そのようなもの」として提示される。そのことにより、現実の身体とは何なのか、という新たな問いが生じる。人間の現存在は、身体を持っている。あるいは身体を得ている。存在の普遍的な前提として、身体性がある。したがって、身体を喪ったときが死というものである。そこで、何が身体でありどこまでが身体なのかということを突き詰めて行くと、実存主義に大きく傾いて行くことになる。特定の個を持たないヒトに似たうごめく何かが、画布の上に描かれている。美しくもなく、ただ物体としてそこにある。なぜかとてつもなく危うい。椅子に座している枢機卿のような人物も、枢機卿という符号が消えて、枠による閉ざされた人として見ることができる。逆に言うと、閉ざされているものが枢機卿であるのならば、すべての人間は皆一様に閉ざされているということを意味する。そこから、社会というものはそもそ人間自身を閉ざしてしまうものという認識すら導きだしてしまう。椅子に座している枢機卿を描いているうちに、肘掛けに載せている腕が、スフィンクスのようにも見えて来て、スフィンクスに興味が出て来る。つまり、描くという行為から、意味付けが連鎖して行く。しかしながら、全てを意味論として見て行くことにも重大な落とし穴が隠されているようにも感じてしかたがない。絵が開くというのはベーコンにとって、答えが予測されない実験のようなものだったのかも知れない。そのような見方をすれば、ベーコンは完全に抽象作家である。見る者のガラスの映り込みを意識していたのであれば、ことさらそう言えるのではあるまいか。
しかし、作品にジョージ•ダイアーが出てくるところは、さすがにベーコンは科学者ではなく画家そのものであったに違いない。
2013年4月7日日曜日
海と大陸 Terraferma
2011年イタリア/フランス 脚本:監督エマヌエール•クリアレーゼ
南イタリア、シチリア海峡ペラージェ諸島の小さな小さなリノーサ島の漁師たち。古来そのなりわいは漁であった。しかし、世界が大きく変わるのにしたがって、この離島も例外ではなくなっていた。海に住む魚の状態がかわり、観光という新たな産業に頼るしかなくなってくる。北イタリアの比較的裕福な人々が、夏のヴァカンスに訪れる場所。漁船を観光クルーズ船として利用する住人も出てきている。
しかし、この島はもうひとつ大きな問題を抱えている。それは、アフリカが距離的に近く、ヨーロッパに向かう難民が逃れて来る場所になっているのだった。イタリア政府からはそのことに厳しく対処するための警備組織が強められてもいるのだった。
昔気質の漁師エルネスト(ミンモ•クテイッキオ)とその孫フィリッポ(フィリッポ•プチッロ)はいつものように漁に出ていたのだが、水平線の向こうに何かを発見する。見るとそれはアフリカからの難民の筏だった。漁船を見て何人かの難民は泳いでやってくる。助けてしまうと、法に触れるのだが、警備船が来るまえにエルネストはその数名を漁船に引き上げ救出する。そのなかには妊婦もいたのだった。どんな状態であっても海に投げ出されているものがあれば救出するのが、シーマンシップなのだ。このことが、この小さな島の大きな問題になってくる。法にそむいてもなんとか難民の命を救おうとするエルネスト、そしてラストシーンでのフィリッポの決断は印象的だ。
この物語は、いまの世界が抱えている大きな問題である。そしてこの問題は、その国その地域が地理的にどのような場所にあるか、ということも大きく影響している。地政学的なものである。もちろん国家として対処しなければならないことはある。ある基準を決めなければ、国家間の関係が危うくなることもある。しかし、それぞれ個々の人間が実際に直面することは、目の前にある命の問題である。
思えば我々の住むこの日本も地理的に厳しい場所にある。中国•韓国•台湾•アジア諸国と米国の動向が直接影響する。もし太平洋のまん中だったり、大西洋の方だったりすると、また全く違うことになっていただろう。おまけに地球のプレートが複雑に入り組んでいる地震多発の場所でもある。我々はこの宿命をきちんと受け入れ、ものごとの判断をしていかなければならない。この映画作品を見て、そのようなこともしばし考えた。
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