2017年10月15日日曜日

鳥のことは何も書いていない。


 こんな新聞記事を見つけた。2017年10月13日の「東京新聞夕刊」である。ドローンが鳥とぶつかり墜落したようだ。この記事には「鳥」のことは一切書かれていない。この鳥はどうなったのだろう。「けが人はいなかった」かもしれないが、「けが鳥」はいたのかなかったのか。これからの産業に対して「ドローン」は有効なのかもしれないが、(デュアルユースだと思うが)もしこのような事故が頻繁におこると命ある鳥はどうなんだ。こんなことを言うと、過激で過剰な動物愛護者とレッテルを貼られてしまうかもしれないが、これは意外と大きな問題である。空港のバードストライクはあるが、それに対してバードパトロールなどの対策はしている。そもそもが人命のためであるが、鳥の命も結果として救うことにはなる。
 そもそも飛んでいる鳥が何かにぶつかるということは、どれくらいの確率なのだろう。本能や能力は、そんなヤワなものではないだろう。普段目にする鳥たちの素早さには驚くことがある。小型のドローンだからであろうか、なんだかわからないことが多すぎる。

ERNEST


                   脚本・監督:阪本順治
                   2017/日本・キューバ合作
                   オダギリ・ジョー
 

 ゲバラ没後50年、そしてこの作品の主人公フレディー前村ウルタードも没後50年。1967年ともにボリビアで命絶えた。
 フレディーはボリビア出身の医学生だった。人々のために、それも貧しい人々のために医学を志した。奨学金を得てキューバで学業を続けていたが、祖国が軍事政権となり、志し半ばで戦いを決意する。ゲバラから「エルネスト」という名をもらい祖国のためボリビア政府と戦った。
 1967年わたしは、12歳だった。66年から67年、ロックシーンでは英国の「ビートルズ」が、米国の「ヴェルヴェット・アンダーグランド」が活躍していた。66年ボブ・ディランがバイク事故で活動休止し、67年に復活した。66年6月ビートルズが来日し、67年10月ツイギーが来日した。欧米のサブカルチャーが大きく変革して行った時代でもあった。68年には「パリ五月革命」が起こった。67年8月31日、フレディーは政府軍により射殺された、享年25歳。ゲバラも政府軍に捕まり、10月9日射殺された、享年39歳。
 監督の阪本は、キューバに滞在し撮影を続けていたとき、キューバ人の心の優しさに触れ「キューバはいい国だと思った」とラジオ番組で語っていた。

 この作品に対して、あまり解説めいたことはしたくない。戦わなければいけないと、いま痛切にわたしは思うからだ。政治権力闘争を繰り広げている人々が対象だ。武器を持つことはできない。ではどのような戦いをすればいいのか、大きな課題である。

2017年8月9日水曜日

気まぐれ野郎メシーなすの煮浸しー

なす、生姜、醤油、みりん、など。簡単にできるが、焦らずじっくり茄子を焼くことです。




 

2017年8月8日火曜日

神楽坂カド


知人の個展に行く途中、神楽坂のカドに行った。その日は、渋谷ユーロスペースで「ロスト・イン・パリ」という映画を見て、神楽坂に。すこし飲んでから行こうと思い、カドへ行った。立ち飲みは夕方からということで、座敷に案内された。




 昼定食とビールとお酒"京の春" アジの開き、なすの煮浸し、浅漬け、味噌汁、玄米ごはん、で900円です。もちろんお酒は別。

"京の春" 季節限定にごり酒

ごちそうさまでした。

 のんびりと、お酒をやりながら暗がりのなかで、ひとりお膳に箸をすすめていると、先に逝った友人たちを思い出す。「今年も夏を迎えたのだ」としんみりする。

2017年8月5日土曜日

気まぐれ野郎メシ



玉ねぎ

 水に白ワインと醤油を入れる。ローリエを加えてただひたすら煮る。玉ねぎは皮をとってそのまま。上にマグロの油漬をそのまま載せただけ。




き

2017年7月29日土曜日

遠藤利克 展(7.15-8.31)埼玉県立近代美術館

 遠藤利克展ー聖性の考古学ー

 遠藤利克という作家をいつごろから知るようになったのだろうか、具体的な作品を観てからという感じではない。たぶん、美術雑誌か何かでその写真を見て記憶に留めていたということから始まった。そのような意味としては、もの派の作家たちを知識として追認し、その延長としてこの作家を確認して行ったのだろうと思う。私の年代を考えると、それは確かなことだ。それにしても、私より5歳程度上の世代だとは思わなかった。もっと上の世代だと思っていた。
 我々は、言語活動を通してしか世界を認識することができない。文節を作り出し利用することによって、ひとまとまりの思惟を理解し、発信することができるようになった。そこから世界は始まった。もちろん人類としての「認識上の世界」であるという限定付きであるが、そこから考えると、遠藤の作品はきわめてプリミティブな印象を受けるし、神話的でもある。我々の作品理解の手立てのひとつに、既知のことを拠り所にして理解することがある。「これは昔見たことがある⚪️⚪️に似ている、だから作品の意味するものはその⚪️⚪️のようなものだろう。」と。これが我々の理解の手助けとなる。
 「船形」がある。昔、博物館のようなところで見たことがある琉球の「サバニ」あるいは青森の「舟ケ沢の丸木舟」みたいだ。古の人々の生活が垣間見える古代からの考古学的贈り物である。形が似ているということで、それとの関連性を考えてしまうのが人の習性であろうと思う。とすれば作家はそのことを承知で、あるいは巧みに利用して何かを表現することもある。原初の形をとどめている船は、根源的な何かを象徴しているのかもしれない。そして、焼くという行為の果てに生成される物。どこか神話的なことが色濃く現れている。陶器などを焼くという過程の問題ではなく、「焼く、燃やす」という行為が浮き彫りになる。だからこそ、作品名に「木・鉄・タール・火」と素材が記入される。この四つは等価に記入されているが、「火」のみが行為であり、他はあくまでも「素材」である。作家の意識無意識に関わらず、本質が現れている。だからこそ、焼く行為が記録ビデオとして会場に流されているのだ。そのビデオは、葬送的なイメージを喚起させる。いまでもそのようにして葬送の儀式を行っている地域はある。この葬送の儀式の先にあるものは魂の浄化と再生であろう。そのようなことを関連させてみると。この作家の作品は、「浄化と再生の神話から導き出された提示」と考える。きわめて身勝手な解釈であるかもしれないが、私なりの確信だ。

巨大な輪である。





 船の中に水が張ってある。吹き抜けの天井から、柱が釣り上げられている。背景に常設のジャコモ・マンズー「枢機卿」が置かれてあるのが何か象徴的でいい。







2017年7月28日金曜日

「記憶にありません」

田中角栄政権の時代「ロッキード事件」(昭和51年7月28日田中角栄逮捕)があった。国会の証人喚問で、小佐野賢治が「記憶にございません」と言い、他の証人たちものきなみ「記憶にございません」と言い始めた。
 それ以来、何も変わっていない。いまでも問題あるごとに、「記憶がない」と言う。いっそ、AI機能のウソ発見器を使えばどうかな。