2013年11月16日土曜日

描画漫録ー自己が許されるときー

 作品というもの。あるいは、作品とは言えないもの。私は、自分の作り出す物を作品と言えるかどうかにはなはだ疑問をもっている。「作品」というものになったとたん、それはいかにも大変な時を刻み、作者のあらゆる技能の結実であるという暗黙の了解がなされるような気がする。それに対して現代美術というものは観念の世界からはじまり、旧来の作品という概念に、アンチの姿勢をとりながら何かを提示して来たように思う。作品という概念を越え、世界の解釈や実存や現象などにたいしての意味や分析に重点を移すこととなった。したがって、美にとらわれない世界観を持つことでもあった。それはある意味で「提示」という行為になって行った。世界に対して、果敢に提示して行く。
 私の日常の生活にとって、作品とは、世界に対しての解釈である。画面に向かった時には、他の煩わしいことを忘れることが出来る。自分が自分ではない感覚になる。何かに身を任せたときに、自分という自我が消されて、ある存在との同一感覚の中に居るような感じである。気づいたときに何かが生まれている。誰かがそれを作品と呼べばそれでもいい。作品ではないと呼べばそれでもいい。肝心なことはそんなことではない。私自身が画面の中で許されて行くことである。極めて個人的なことであるかも知れないが、ひとりの生活者として現実の中で生きて行くことは、抑圧と破壊のまっただ中に投げ出された存在となる。自分の居場所はどこなのだろうか。それは知らず知らず、自分を浸食して行くのだ。徹底的に自分を見つめることができ、それが心地よい居場所となるところ。それは、私の作業の中にいる自分である。無条件に自己の存在が許されるところである。それは作品のような、画面の中である。