2014年6月25日水曜日

暴政


 ワールドカップがはじまった。人々が熱狂している陰で、日本政府はどんな動きをするのだろう。集団的自衛権確立の勢いがついたとき、北朝鮮の拉致問題が浮上した。街角では号外が配られ、マスコミは一色に染まった。拉致被害者の調査費用を出したのではないかと私は疑いの目を持った。でもこのことを立証することはできない。利得がない限り北朝鮮は動かないだろうと思う。
 思えば、いま世界の国々で「侵略戦争」と言って戦争をする国は存在しない。いつでも防衛のための戦争だ。9•11のアメリカへの攻撃も、自国の民族のための攻撃であって侵略ではない。戦争と自衛は別のものではない、むしろ自衛と戦争はイコールなのだ。「自衛戦争」なのだ。でも戦争したがっている者がいる。
 その昔、「武器を売る商人」を「死の商人」と言った。いま、回りをいくら見渡しても、そんな言葉は存在していない。なぜだろう、国家が絡んでいるので、商人という言葉は当てはまらないのだろうか。世界は経済というグローバリズムで動いている。すべては経済と密接な関係がある。そしてこの経済とはまぎれもなく金融資本主義である。
 この国の大きなものが動くとき、必ずその大きな何ものかの前に、ちらちら動き回るものが出て来る。それに惑わされて、気がついたらすっかり変えられている。なんど同じ事を経験したことだろうか。

2014年6月23日月曜日

気まぐれ野郎メシ


余り物?いや、けっこうな素材です。でも、ただ炒めただけのもの。

ズッキーニ•茄子•エリンギを同じ大きさに切り、ウインナーと一緒に、たっぶりのオリーブオイルで炒めた。味はさらっと、塩だけ。

2014年6月21日土曜日

中村一美 展

 国立新美術館の中村一美展(2014/3/19〜5/19)に行った。とにかく大きなタブローを描く人だ。明らかにアメリカ現代美術の影響を受けている。アメリカ現代美術華やかなりし頃に青春を送った世代だ。マーク•ロスコ、バーネット•ニューマン、サム•フランシス、争うように作品が巨大化して行った作家たち。それはアメリカの国力に比例して行ったようにも思える。中村の巨大な作品は実にそんなアメリカを思わせる。私にはどうしても彼の作品は抽象表現主義の延長線に思えてならない。確かに中村自身は、そんな見方を否定するかも知れない。自身の作品に対して、極めて饒舌に語る人だからである。それは個々の作品に付けられる題名が顕著に物語っていると思える。
 『范寛』(1995)(范寛とは、紀元千年ころの北宋の画人)『採桑老』(1998/99/2000)
『死を悼みて土紫の泥河を渡る者々』(2003)など、物語性のある題名が多い。この作品から遊離したような名付け方は何なのだろうか。『採桑老』とは雅楽の演目のひとつであり、「これを演ずると数年後に死ぬ」という伝説がある。中村の作品のスタイルを彼自身の思い出や体験と関係付けて論ずる評論家もいるが、(例えば、Yのシリーズは母親の実家が養蚕農家だったから、Yという記号は桑の木の象形である。とか)作品にメランコリーな意味付けをすることにどれだけの価値があるのだろうか。作品はあらゆることから解放され、自由なものであって欲しいのだが。
 というのも実は私自身の見方であって、実作者中村は異なる認識を持っているだろう。その題名を付けたのは本人自身であるからだ。題名だけ見ると、確かに彼には生涯こだわらざるを得ない何かがある。幼少期の環境、肉親の自死、などなど。「死」とは何か、この不確定でありながら確実なこと。すべての存在の究極なる到達点。誰でも考えてしまうことだ。中村が美術作家でなければ、文学者となって表現するかもしれない。彼は物語性を捨てることができない。具象ならいざ知らず、抽象表現であればあるほど、画面と異なる場所に、それを表す。試行錯誤の題名の付け方である。あえて誤解を招く言い方をすれば、彼は「題名の物語作家」である。そしてそこから自分自身を解放させるための絵画表現である。『題名(彼の内面)に対する画面の格闘』である。つまり、最初に題名が存在するのだ。おそらく、この私の言説は彼の無意識の領域に踏み込むことになるだろう。
 1956年生まれ、中村一美は、巨大画面で格闘する。格闘するから巨大画面でなければならない。私は1955年生まれ、同世代である。

 

2014年6月10日火曜日

気まぐれ野郎メシ


 なんのこともない、ただ普通のサラダ。トマト•キュウリ•コーン•レタス•チーズ。そこにオリーブオイルをかけて、塩を少々。ただ和えただけ。

 実験としては、オリーブオイルをかけたということ。普段このようなことはしない。しかし、オルセー美術館の近くのレストランで、大量にオリーブオイルをかけたサラダのようなものを食べたので(そのオイルの多さに辟易したが)。なんとなくオリーブオイルを使ってみただけ。チーズはなんという種類かはわからないが、けっこう柔らかいチーズだ。パリのどうってことないスーパーマーケットで、どうっていうことのない安いチーズを買って、そのまま持って来たもの。
    さて、味はいかがかな••••。

2014年5月19日月曜日

石田徹也 展

 2014•5•18
 平塚市美術館で開催されている『石田徹也 展』に行く。気温が高く、人々も風景も夏の装い。駅前でパスタと白ワインで昼食、そして美術館へ。石田徹也とは何者か。現代社会の風刺か、人間という存在の危うさか、押しつぶされそうな人間存在へのレクイエムか。テーマは明確だ。しかし、絵という表現は、微妙に多様性を孕む。極めて静寂な画面である。その静寂さは、現代人のある種の諦念を表しているようにも思える。作品の登場人物は、ほとんどネクタイ姿の社会人だ。高度資本主義のなかの会社員。
 私は、『深海魚』(2003)という作品が好きだ。窮屈なまでに真面目に追求する石田が、どこか突き抜けた心境に一瞬たどり着いたようにも思える。重層的な画面が妙に心地よい。晩年になればなるほど、外と内、内部と外部という概念が画面に表出してくる。『満潮』(2004)などの画面には渚と病院ベッドとカーテンが描かれる。これらの装置は、確実にあっちの世界、こっちの世界というイメージだ。本人が求めて描いているのだが、彼ほど自分の内面がむきだしになってくる作家もめずらしいかも知れない。作品がまるで予言者のように語りかけて来る。
 瞬間的にわたしは思った。「彼の死は無意識の自殺」だと。これを追求して行くと、戻れない地点まで踏み込まざるを得なくなる。多くの作家は、どこかで自分を引き戻す。しかし、極限で、あるいは極めてボーダーなところで、ぽっかりと開いた虚無の空間に入り込んで戻れなくなることがあるだろうと私は実感している。彼はそのようなタイプの人間だったに違いない。もし生存していたならば、抽象的な表現に興味を抱くようになったかも知れない。
 早朝の踏切事故で31年の人生を終えた。

 美術家彦坂尚嘉は、かれの作品に「第16次元崩壊領域」が見られるという。確かに彦坂特有の言説だが、そうだろうと思う。石田徹也はいい作家だ。

私事であるが
 「回転ドアの社会人」という題名のリトグラフを制作したことがある。22歳ぐらいのときだったと思う。回転ドアにへばりついたスーツ姿の現代人を描いたものだった。企業戦士の悲哀を、生意気にも感じていた。そんな私には、石田の作品がどこか懐かしいような感じもする。しかし、その後わたしは、この日本の高度経済成長の立役者である企業戦士を悲哀をもって語る事はしなかった。その人たちの忍耐と努力によって、戦後日本の復興があったのだと理解してからは。

2014年5月10日土曜日

Poissy(ポワシー)イル•ド•フランス地域圏

 個展開催期間の前半一週間、パリに滞在しました。そのとき、パリを少し離れたポワシーという町を訪れましたが、そこはパリの西30kmぐらいに位置する町です。私が滞在していたアパルトメントの近くの11区と12区にまたがる「Nation(ナシオン)」という駅で、RER A5番線の列車に乗り換えました。ナシオンからちょうど50分でポワシーにたどり着きます。自動車会社プジョーの工場がポワシー駅手前にあり、「あっ、ここがプジョーの工場なんだ」と少し感動。プジョーの208はここで作られているらしいです。閑静なポワシーの駅に降り立ちました。



 パリ市内とちがい、空気も澄んでいて人もちらほら程度。道にタバコの吸い殻も、犬のうんこも落ちていません。駅前の頭像は、ポンピドーです。後で画廊のオーナーから聞いたのですが、ポワシーにはブロジュアジーしか住んでいないらしい。おだやかに時間が流れています。こんなところに住んでいたら、心身共に健康でいられるような気がしました。
 駅を出たら、そのまま右の方にどんどん進みます。

 突き当たって、左をこちょこちょこと行くと、とんがり帽子が見えてきました。そうです、教会です。ノートルダム•参事会教会(Le Collégiale notre-Dame)という教会です。

   














 どこからお見えになったのか、ワンボックスカーを利用して来たシスターたちが数人いました。

 まだまだ歩きます。人家の軒先のようなところも進みます。





                                                                   

 すると見えてきます。目的の場所です。そうです、それはル•コルビュジエが設計したサヴォア邸です。















 
 
 森の中にドカンと見えて来る白亜の建物です。このモダニズムに最初は戸惑う感じです。しかし、中に入ると、この独創的なデザインに驚くばかりです。まるで迷路のような建築は、わたしたちの心身に何か別な次元の刺激を与えるような気もします。 






















 

 やはりすごい人です。1931年竣工。アンドレ•マルローが歴史遺産に指定した20世紀最高作品に数え上げられるひとつです。
 
 その後の帰り道、玩具博物館に立ち寄りました。なんだか、ドロリとしたオブジェたちが隙間なく存在しています。魔女の部屋のようなところもあり、興味深かったです。




 
駅から徒歩で行くのがおすすめです。ゆっくりと歩いてそんなに時間はかかりません。
パリ市サンラザール駅まで、なんと21分で着きます。もう一度行ってみたいところです。


ポワシーからサンラザールまで21分

































2014年5月6日火曜日

描画漫録(2014/4.19〜5.2 パリ)

 2回目になりますが、パリでの個展が終了しました。4月18日の夜に羽田から発ち、翌19日の朝4時にシャルルドゴール空港に着きました。まだ人々の姿は街には見られません。ひんやりとしたパリの早朝。橙色の街灯が照らす街角は、どこかウッディアレンの映画を思わせる感じでした。その日のうちに展示し、オープニングというハードな日程でした。パリでは初めての試みをするようにしています。今回は紙の作品でした。イタリアのファブリアーのという紙で、大量の水を使うので極厚のものを使いました。綿と違い、紙の場合にはよりスピーディーな作業が必要となります。あっという間に絵の具がしみ込んでしまうからです。その意味ではまだまだ探求が必要です。私としては、綿布の作品と意識的に違うわけではないのですが、紙の作品に注目してくれた人が少なくはないようでした。7月の銀座での個展で紙の作品をもう少し試みてみたいと思います。