監督•脚本 フェルナンド•トルエバ 脚本 ジャン=クロード•カリエール
2012 スペイン
ある彫刻家クロス(ジャン•ロシュフォール)とは、マイヨールのことである。もちろんフィクションではあるが、マイヨールへのオマージュという作品には違いない。
老彫刻家のもとにメルセ(アイーダ•フォルチ)という若い娘がやってくる。彼女はある日クロスの妻レア(クラウディア•カルディナーレ)が街で見つけ、つれて来たのだった。その娘の身体は、彫刻家好みのものだとレアは直感したのだ。レアもかつてはクロスのモデルを務めていた。山小屋のアトリエでの創作がはじまる。彫刻家の言葉はきわめて示唆的である。箴言と言える。見る者はその言葉をじっくりと味わうことができる。ドイツ軍占領下でのフランス。とりあえず過激な戦闘が行われているようすは見えない。実にのんびりとした時間が流れるアトリエである。しかし、その後ろには戦争の匂いが立ちこめている。この彫刻家を慕っているヴェルナー(ゲッツ•オットー)というドイツ軍人がいる。彼はときどきクロスのアトリエを訪れ、伝記の出版を計画していた。彼はミュンヘン大学で美術史の教鞭をとっていたのだ。ある日彼は遠くの戦地に行くことになったことをクロスに告げるが、彼が去った後クロスはひとりつぶやく、「もう合えない気がする」と。
また、モデルのメルセもまたスペイン内戦で故郷を追われた身の上だった。ひと夏のアトリエ。彫刻家とモデル、クロスとメルセ。それは友情とも言える関係である。そして、レアがいい。レアはクラウディア•カルディナーレだ。
(ル•シネマにて)
2013年11月26日火曜日
2013年11月16日土曜日
描画漫録ー自己が許されるときー
作品というもの。あるいは、作品とは言えないもの。私は、自分の作り出す物を作品と言えるかどうかにはなはだ疑問をもっている。「作品」というものになったとたん、それはいかにも大変な時を刻み、作者のあらゆる技能の結実であるという暗黙の了解がなされるような気がする。それに対して現代美術というものは観念の世界からはじまり、旧来の作品という概念に、アンチの姿勢をとりながら何かを提示して来たように思う。作品という概念を越え、世界の解釈や実存や現象などにたいしての意味や分析に重点を移すこととなった。したがって、美にとらわれない世界観を持つことでもあった。それはある意味で「提示」という行為になって行った。世界に対して、果敢に提示して行く。
私の日常の生活にとって、作品とは、世界に対しての解釈である。画面に向かった時には、他の煩わしいことを忘れることが出来る。自分が自分ではない感覚になる。何かに身を任せたときに、自分という自我が消されて、ある存在との同一感覚の中に居るような感じである。気づいたときに何かが生まれている。誰かがそれを作品と呼べばそれでもいい。作品ではないと呼べばそれでもいい。肝心なことはそんなことではない。私自身が画面の中で許されて行くことである。極めて個人的なことであるかも知れないが、ひとりの生活者として現実の中で生きて行くことは、抑圧と破壊のまっただ中に投げ出された存在となる。自分の居場所はどこなのだろうか。それは知らず知らず、自分を浸食して行くのだ。徹底的に自分を見つめることができ、それが心地よい居場所となるところ。それは、私の作業の中にいる自分である。無条件に自己の存在が許されるところである。それは作品のような、画面の中である。
私の日常の生活にとって、作品とは、世界に対しての解釈である。画面に向かった時には、他の煩わしいことを忘れることが出来る。自分が自分ではない感覚になる。何かに身を任せたときに、自分という自我が消されて、ある存在との同一感覚の中に居るような感じである。気づいたときに何かが生まれている。誰かがそれを作品と呼べばそれでもいい。作品ではないと呼べばそれでもいい。肝心なことはそんなことではない。私自身が画面の中で許されて行くことである。極めて個人的なことであるかも知れないが、ひとりの生活者として現実の中で生きて行くことは、抑圧と破壊のまっただ中に投げ出された存在となる。自分の居場所はどこなのだろうか。それは知らず知らず、自分を浸食して行くのだ。徹底的に自分を見つめることができ、それが心地よい居場所となるところ。それは、私の作業の中にいる自分である。無条件に自己の存在が許されるところである。それは作品のような、画面の中である。
2013年11月12日火曜日
H的立場ー気をつけなければー
とにかく文章というものは、きちんと校正しなければならない。と日頃感じているのだが、どうしてもいい加減になってしまう。とくにこのブログなどは、どうせ見る人はあまりいないのだからという感情が先立って、ただ書くことに精一杯のようになってしまっている。前のものを読み返していると、あらあら誤字脱字があちこちにあることあること。もうしわけなく、また情けなくなってしまう。どうかご勘弁を。
なんだか日本の政治が狂っている。反対意見なんかどうでもいいと言う感覚なのではないだろうか。戦後民主主義などと言っていたが、いったいどこに民主主義があるのだろうか。以前は「衆参ねじれ現象」で政治が思うように行かない。とさんざん言い続けて来たマスコミ。当時なぜ「ねじれ」なんて言うのだろうかと疑問に思っていた。いろんな意見があるからこそ民主主義ではないか、それをあたかも悪いことのように「ねじれ」という言葉で大衆を煽動していると感じた。今度は、政府のやり方に誰も意見が言えなく、ある方向に向かって突き進んでいる。何を言っても、首相の態度は変わらない。この権力は揺るぎないのだと思っているからだろう。確かに揺るぎないのだ。「無理を通せば道理が引っ込む」「憎まれっ子世にはばかる」そしてヘイトスピーチがまかり通る世の中。なんていう国になってしまったのだ。でもこの政治体制は、国民ひとりひとりの意識で作り出したものだ。
なんだか日本の政治が狂っている。反対意見なんかどうでもいいと言う感覚なのではないだろうか。戦後民主主義などと言っていたが、いったいどこに民主主義があるのだろうか。以前は「衆参ねじれ現象」で政治が思うように行かない。とさんざん言い続けて来たマスコミ。当時なぜ「ねじれ」なんて言うのだろうかと疑問に思っていた。いろんな意見があるからこそ民主主義ではないか、それをあたかも悪いことのように「ねじれ」という言葉で大衆を煽動していると感じた。今度は、政府のやり方に誰も意見が言えなく、ある方向に向かって突き進んでいる。何を言っても、首相の態度は変わらない。この権力は揺るぎないのだと思っているからだろう。確かに揺るぎないのだ。「無理を通せば道理が引っ込む」「憎まれっ子世にはばかる」そしてヘイトスピーチがまかり通る世の中。なんていう国になってしまったのだ。でもこの政治体制は、国民ひとりひとりの意識で作り出したものだ。
2013年11月9日土曜日
気まぐれ野郎メシ ーヤバイめしー
見るからにヤバそうなもの。素材の一部の消費期限がヤバイ。
なす:切ると赤みがかっている。
ピーマン:二個冷蔵庫の中で忘れられていた。一個は使い物にならず。
ピリ辛トマトソース缶:完全にヤバイ。
ウィンナー:OK
玉葱:OK
カレー粉:少々
ピーマンとなすと玉葱を炒め、トマトソースで絡める。カレー粉を少々。最後にウィンナーを和えるだけ。
しかし、味的にはOKだった。家族はどれぐらいヤバかったのかは知らない。
反省:冷蔵庫の中は、きちんとチェックを怠っては行けない。
なす:切ると赤みがかっている。
ピーマン:二個冷蔵庫の中で忘れられていた。一個は使い物にならず。
ピリ辛トマトソース缶:完全にヤバイ。
ウィンナー:OK
玉葱:OK
カレー粉:少々
ピーマンとなすと玉葱を炒め、トマトソースで絡める。カレー粉を少々。最後にウィンナーを和えるだけ。
しかし、味的にはOKだった。家族はどれぐらいヤバかったのかは知らない。
反省:冷蔵庫の中は、きちんとチェックを怠っては行けない。
2013年11月4日月曜日
ある愛へと続く旅 (原題:VENUTO AL MONDO 英題:TWICE BORN)
監督:セルジオ•カステリット 原作:脚本:マーガレット•マッツァンティーニ
2012年 イタリア/スペイン
英語題は「TWICE BORN」(二度の生まれ)イタリア語原題は「VENUTO AL MONDO」(世界の到来) 主演:ペネロペ•クルス。
ペネロペ•クルスの役柄は大女優への一歩という印象を受けた。題材は極めてきつい苦悩の世界である。神は一部の人間に、これほどまでの苦痛を与えるのだろうか。そしてどれほどまでに人間への贖罪を求めるのだろうか。筆舌に尽くし難い作品であった。
舞台がサラエボ、ボスニア•ヘルツゴビナの首都。子どもが欲しい夫婦が、とてつもない状況に巻き込まれて行く。
ジェンマ(ペネロペ•クルス)はサラエボに留学していたときに知り合ったカメラマンのディエゴ(エミール•ハーシュ)と恋に落ちる。彼女は彼の目を持つ子どもが欲しいと願うが、その望みは断たれる。ローマで暮らしていたのだが、彼女たちは再びサラエボへと向かうのだった。そして民族紛争がはじまってしまうサラエボで、壮絶な人間模様が繰り広げられる。代理母を申し出る女性(サーデット•アクソイ:トルコイスタンブール出身)、紛争時の兵士の暴行、絶望のため自らの命を断つ夫(エミール•ハーシュ:カリフォルニア出身)詩を読むリーダー格の男(アドナン•ハスコヴィッチ:サラエボ出身)、ジェンマ(ペネロペ•クルス:スペインマドリード出身)と一緒になるイタリア•カラビニエーリの大佐(セルジオ•カステリット:ローマ出身:本作監督)、息子ピエトロ(ピエトロ•カステリット:ローマ出身:セルジオの実子)、精神科医(ジェーン•バースキン:ロンドン出身)。
スリリングなプロットは、感動を呼ぶラストに一気に進む。そして愛というものの本質を深くえぐり込む。アガペーとしての愛である。
(「TOHOシネマズシャンテ」にて)
2012年 イタリア/スペイン
英語題は「TWICE BORN」(二度の生まれ)イタリア語原題は「VENUTO AL MONDO」(世界の到来) 主演:ペネロペ•クルス。
ペネロペ•クルスの役柄は大女優への一歩という印象を受けた。題材は極めてきつい苦悩の世界である。神は一部の人間に、これほどまでの苦痛を与えるのだろうか。そしてどれほどまでに人間への贖罪を求めるのだろうか。筆舌に尽くし難い作品であった。
舞台がサラエボ、ボスニア•ヘルツゴビナの首都。子どもが欲しい夫婦が、とてつもない状況に巻き込まれて行く。
ジェンマ(ペネロペ•クルス)はサラエボに留学していたときに知り合ったカメラマンのディエゴ(エミール•ハーシュ)と恋に落ちる。彼女は彼の目を持つ子どもが欲しいと願うが、その望みは断たれる。ローマで暮らしていたのだが、彼女たちは再びサラエボへと向かうのだった。そして民族紛争がはじまってしまうサラエボで、壮絶な人間模様が繰り広げられる。代理母を申し出る女性(サーデット•アクソイ:トルコイスタンブール出身)、紛争時の兵士の暴行、絶望のため自らの命を断つ夫(エミール•ハーシュ:カリフォルニア出身)詩を読むリーダー格の男(アドナン•ハスコヴィッチ:サラエボ出身)、ジェンマ(ペネロペ•クルス:スペインマドリード出身)と一緒になるイタリア•カラビニエーリの大佐(セルジオ•カステリット:ローマ出身:本作監督)、息子ピエトロ(ピエトロ•カステリット:ローマ出身:セルジオの実子)、精神科医(ジェーン•バースキン:ロンドン出身)。
スリリングなプロットは、感動を呼ぶラストに一気に進む。そして愛というものの本質を深くえぐり込む。アガペーとしての愛である。
(「TOHOシネマズシャンテ」にて)
H的立場 軽自動車の増税
総務省が軽自動車の税金を引き上げる案を提出した。報道では、普通車の税金に対して
バランスを欠いているから、という話があった。そんなおためごかしの論が公にされ、マスコミは何の反論もせず、そのままニュースとして流している。バランスを欠いているという理由だけなら、税金の高い普通車を下げればいいだけの話だ。それでこの問題は終わる。おおいに腹が立った。理由は全く違うところにあるにもかかわらず、幼稚な言論に終始している。なぜ軽自動車に人気があるのかという本質に言及しなければ、何も見えてこないし、そこから政治は生まれない。
軽自動車の税金に対して、TPPの懸念材料であるISD条項として話題にされることがよくある。ISD条項とは、「ある国の政府が外国企業。外国資本に対してのみ不当な差別を行った場合、当該企業がその差別を受けた損害について相手国政府に対し賠償を求める」ことが出来るという法律である。実例として、カナダやメキシコのことがあげられるが、米国側が自国の自動車が売れない理由は、日本の軽自動車税という制度に問題があるという理由で提訴される可能性がある。という懸念である。ということを考えると、その先取りでないだろうか。あらかじめこのような方向を打ち出しておけば、アメリカに対して、「日本は努力していますよ。」ということで矛先の緩和になる。
しかし、話はこればかりではない。今回気がついたことは、政府の税金徴収源の開発ということである。これは一挙両得ではないだろうか。いやむしろ税金確保の方に重点が置かれているではないだろうか。11月2日の山形新聞のコラム「談話室」にわたしと同じような意見が掲載されていた。「税収の穴を軽などで埋めようという構想だ。軽の保有台数の1位は佐賀県2位は鳥取県3位は島根県、そして4位は山形県」だそうだ。そして、低いのは、東京•神奈川•大阪。税制を決める専門家には、電車の多い東京を出て、地方の声を聞いてもらいたい。」大都会では、電車の便がいいが、地方では公共の交通機関がないところもある。例えば沖縄には那覇のゆいまーる以外は鉄道がなく、県民の足はほとんど自分たちが保有する自家用車だ。都会からは離れれば離れるほど、交通の便は悪くなる。通勤だって、村役場に行くのだって、病院に行くのだって、赤字になってしまう公共交通は無くなっている。
諸外国に円借款などで貸す資金は膨大にある。復興支援のお金は使われないままである。おもいやり予算もそのまま。そんなお金があるにもかかわらず、いままでのレベルの維持や、それ以上にするために、国民から税金として徴収する法案がとまらない。
ISD条項に関しては、これは「狼と少年」だ。主権侵略ではなく、その条項での話である。という考えもある。しかし、自国に有利にはたらかない条項をアメリカが持ち出すことがあるだろうか。アメリカの基本姿勢として、アメリカのアメリカによるアメリカのための国際戦略は、そんな甘いものではない。
軽自動車の税金に対して、TPPの懸念材料であるISD条項として話題にされることがよくある。ISD条項とは、「ある国の政府が外国企業。外国資本に対してのみ不当な差別を行った場合、当該企業がその差別を受けた損害について相手国政府に対し賠償を求める」ことが出来るという法律である。実例として、カナダやメキシコのことがあげられるが、米国側が自国の自動車が売れない理由は、日本の軽自動車税という制度に問題があるという理由で提訴される可能性がある。という懸念である。ということを考えると、その先取りでないだろうか。あらかじめこのような方向を打ち出しておけば、アメリカに対して、「日本は努力していますよ。」ということで矛先の緩和になる。
しかし、話はこればかりではない。今回気がついたことは、政府の税金徴収源の開発ということである。これは一挙両得ではないだろうか。いやむしろ税金確保の方に重点が置かれているではないだろうか。11月2日の山形新聞のコラム「談話室」にわたしと同じような意見が掲載されていた。「税収の穴を軽などで埋めようという構想だ。軽の保有台数の1位は佐賀県2位は鳥取県3位は島根県、そして4位は山形県」だそうだ。そして、低いのは、東京•神奈川•大阪。税制を決める専門家には、電車の多い東京を出て、地方の声を聞いてもらいたい。」大都会では、電車の便がいいが、地方では公共の交通機関がないところもある。例えば沖縄には那覇のゆいまーる以外は鉄道がなく、県民の足はほとんど自分たちが保有する自家用車だ。都会からは離れれば離れるほど、交通の便は悪くなる。通勤だって、村役場に行くのだって、病院に行くのだって、赤字になってしまう公共交通は無くなっている。
諸外国に円借款などで貸す資金は膨大にある。復興支援のお金は使われないままである。おもいやり予算もそのまま。そんなお金があるにもかかわらず、いままでのレベルの維持や、それ以上にするために、国民から税金として徴収する法案がとまらない。
ISD条項に関しては、これは「狼と少年」だ。主権侵略ではなく、その条項での話である。という考えもある。しかし、自国に有利にはたらかない条項をアメリカが持ち出すことがあるだろうか。アメリカの基本姿勢として、アメリカのアメリカによるアメリカのための国際戦略は、そんな甘いものではない。
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