マイケル・ラドフォード監督作品 2011年 仏・独・伊
あるJAZZピアニストのドキュメンタリー。その男の名はミシェル・ペトルチアーニ。1962年フランス出身。骨形成不全症という障害を持って生まれ、成人しても1メートル程度だった。生まれたときには、もうほとんどが骨折状態であったという。
音楽家一家に生まれた彼は、幼少のときからピアノを弾き始めた。あっという間に高度なテクニックを身につけ、名のあるミュージシャンを驚かせた。18歳の若さでニューヨークのブルーノート・レコードと契約、脱兎のごとくJAZZ界を駆け抜けた36年の人生だった。陽気で破天荒、いまはペールラシェーズ墓地に静かに眠る。
健常だとか障害だとか人はよく話題にする。ペトルチアーニが言うように、規格内であるなら健常で、規格外なら障害なのだろうか。体のサイズからなにから、われわれは規格内であることに安心するのかも知れない。ようするに圧倒的多数の中にいるということだ。
小男である私にとって、いろいろ考えさせられる作品であった。もちろん、私はピアニストでもなく天才でもないのだが。
2012年10月23日火曜日
2012年10月21日日曜日
菖蒲
アンジェイ•ワイダ監督作品。2099年/ポーランド。ポーランドの作家ヤロスワフ•イヴァシュィチの作品が題材になっているという。(この作家の作品を読んだことがないので、内容については不案内。)菖蒲というものはなんだろうか、作品のはじめのほうで、「死のにおいがする。」という台詞がある。原作の内容/その原作を撮影しているメイキングのような場面/主人公の実生活のモノローグ。このみっつの場面がモザイク模様のように組み合わされている。極めて文芸的な作品である。
私なりにこの作品の感想をいうならば「虚実皮膜」という言葉が当てはまるように思う。主人公役のクリスティナ•ヤンダは実生活で夫を亡くしたばかりで、その夫の思いをひとりごちる。この場面は、「実」ということになる。映画作品は「虚」で撮影風景は、実と虚の派境に位置する。そのように考えると、この作品世界がよりリアルに感じることができる。内容は「生と死」人間にとって永遠のテーマだ。
若い青年ボグシ(パヴェウ•シャイダ)が生の象徴であるが、溺れて死ぬ。主人公マルタ(クリスティナ•ヤンダ)は不治の病で一夏を越せるか、という状態。医師の夫が病気を発見するが、妻には知らせていない。マルタはこの青年と、人生最後のアバンチュールをしょうとするのだが••••。
「生と死」ということを我々はよく言葉にする。しかし、みんな死を体験していないので、明解な回答を出すことができない。自分自身で覚悟を決めるしかない。「生と死は裏腹である」という言葉もよく耳にする。しかし、「生徒と死」というのは、字面のように、パラレルな感じではない。パラレルだというのは、あくまでも神の視点である、人にとっては、生の後に位置するのが死であり、この順番はけして逆転することはない。生から死を想像できるが、死から生を観ることはできないのだから。
この作品をじっくりふりかえることにより、人としての味わいと謙虚さが滲み出てくるように思う。
若松孝二
監督若松孝二が急逝した。新宿でタクシーにはねられたことが原因。若松監督といえば、反骨•反権力という言葉が浮かぶ。昔気質の映画人だ。社会派というよりも人間のドロドロした感情を作品化した人だと私は考えている。人間はさまざまな感情を持ち、その感情を持て余したり、他者との感情のなかで、自らが引き裂かれて行くこともある。若松孝二の作品に登場する人物は、みな考えあぐね、どんなに思慮しても解決できない袋小路でうごめいている。人間の業が重低音のように流れているので作品は文学的だ。
わたしが好きな作品は、『エンドレス•ワルツ』(1995)だ。若松作品としては、『実録•連合赤軍あさま山荘への道程』(2008)や、『キャタピラー』(2010)を代表作としてあげる向きも多いが、この人はもとピンク映画の巨匠だった。その感じが『エンドレス•ワルツ』にあると思うのだが、どうだろうか。もちろん、フリーインプロビゼーションのジャズメン安部薫(町田町蔵)と作家鈴木いづみ(広田玲央名)のファンであることが、私の評価基準になっていることもあるだろう。
潤沢な予算でテレビ会社などが作る映画作品などが多くなっているが、若松プロのような存在が日本映画のレベルを支えていると思う。残念だ。
2012年10月18日木曜日
ライク•サムワン•イン•ラブ
アッバス•キアロスミ。イラン映画を初めて見たとき、監督はこのアッバス•キアロスミだった。『友だちのうちはどこ?』『そして人生はつづく』『オリーブの林をぬけて』などを観た。そして徐々にイランに興味を持ち始め、モフセン•マフマルバフや、アボルファズル•ジャリリなどの監督の作品を観るようになった。
今回の作品は、日本の俳優をつかった日本での作品。キアロスタミは最近、母国を離れて作品を作っている。これは何を意味しているのだろうか。なんとなく想像はできるが、そんな想像をしてみても、なんだか空しさが残りそうに思うので、やめておくことにする。
ひとり暮らし元教授タカシ(奥野匡)のところにデートクラブから紹介された女子大生明子(高梨臨)がやって来る。元教授は、どうやらその娘と食事やおしゃべりをしたい感じである。ところが、彼女がつきあっているという自動車修理工のノリアキ(加瀬亮)が現れることによって、話は複雑になって行く。明子はノリアキと手を切りたいと思っているのだが、ノリアキは強引に結婚を迫っている。元教授はお爺さんだと思われ、タカシもそれでいいと思って適当にやり過ごそうとするのだが、最後とんでもないことになる。
人生は自分の思うようにはならない。誰もが知っているのだが、突如として極めて理不尽なことに巻き込まれてしまう。この作品は車の中や部屋の中という場面が多い。多いというかほとんどだ、といっても過言ではない。フロントガラスに映る外界と、車の中で話をする老人と明子。タクシー運転士と明子。マンションの三階から見える外の喧噪と孤独な老人。つねに外界と内界という二律によって世界が構成されている。タカシと明子がそれぞれいろんなことを抱えている。つまり内界はそれぞれに微妙な心の襞を織り込んで行くことができている。ところが外界は全く違い、容赦なく流れこんでくる異質なものである。ときには暴力的ですらある。ノリアキは暴力的外界の化身のような存在である。ラストシーンは衝撃的であった。
おだやかな時間が流れているようであったが、結末は不気味だ。時代や国に翻弄されてきたキアロスタミならではの感覚かもしれない。いつだってどこだって衝撃的なことは起こりうる。イタリアで作った作品、『トスカーナの恋』にも感じたが、この監督の世界観は、普遍的だ。
2012年10月9日火曜日
新しい靴を買わなくちゃ
2012/10/8 休日。いよいよ秋らしく、朝のヒンヤリした空気が身体に快い。半袖にジャケットを羽織って目的もなく出かけてみるのもいいかもしれない。
昨日の夕方、「新しい靴を買わなくちゃ」を観た。
監督:脚本は北川悦吏子、恋愛物語の神様と言われる。もともとはTVドラマの脚本家で「愛してくれといってくれ」(TBS)は、なかなかの秀作であった。
キャストが中山美穂と向井理なので、いかにも話題をつくるキャスティングと思ったが、そんな不安な気持ちを見事に解消してくれた。
「ビーカーの中に入れた毬藻を秋の青空に透かして見たような作品」である。
プロデューサーが岩井俊二、音楽監督が坂本龍一。このふたりのアーティストの仕事がかなりあるように思え、映像的にも音楽的にもきわめて芸術的な作品になっている。なんといってもパリ市街がいい。パリをこのように美しく撮影できるのは、日本人アーティストしかいないだろう。パリは平行線で撮ったらいけない。上から見るか、下から見るか、のどちらかだ。日本から来たセン(向井理)を撮っている時、カメラは小津安二郎のようなローアングルで映している。それは、背景を美しく映す方法でもあるように思える。市街の建物の上に空がある。空をスクリーンの六分の一程度にすると、アパルトマンの屋根の形状が映し出される。それがためには、場所によってはローアングルでカメラを回す必要が出て来る。
この作品に生活感のある細かいリアリティはいらない。そうするとこの作品のいい部分が壊されてしまう。画面にたいする細かい注意は必要であろう。
撮影は2012の3月らしい。私が渡仏した一ヶ月ほど前だ。
2012年10月7日日曜日
気まぐれレシピ(パスタ、その1)
さて、こんなばかみたいな内容も。まあ、いいか。と、自分をすぐゆるしてしまう。しかし、これを続けるためには、克己心を持っていどんで行かなければなるまいて。
「パスタ、shinちゃんスペシャル1」
パスタは市販のものを茹でる。もちろん塩とオリーブオイルを少量いれたお湯である。
茹でているあいだに、なすを輪切り、ピーマンを短冊切り、鷹の爪の種をとって細かく切り、トマトを乱切り、ニンニクをみじん切り。
フライパン(合羽橋で買ったアルミのもの)にオリーブオイルとニンニクを入れ、火にかける。香りがしてきたら、鷹の爪、なす、ピーマン、トマトの順で入れる。塩こしょうを少量投入。パスタがゆであがったら、お湯を切りすばやくフライパンへ。味を整えるため、固形の鶏ガラスープの素を小さじ一杯程度(量にもよるので、あくまでも適当。えっ、鶏ガラかよ!なんて思う。)
鷹の爪の量によって、けっこうピリ辛なので身体にいいかんじがする。トマトの酸味もなかなかのもの。
2012年10月6日土曜日
そして友よ、静かに死ね
20011/フランス 監督:脚本 オリヴィエ•マルシャル
エドモン•ヴィダルという実在のギャングがいた。フランスの伝説的ギャング集団「リヨンの男たち」のリーダーだった。そして監督は以前警察官だった。
ヴイダルは銀行強盗だったが、出所後悪の道から引退し幸せに暮らしていた。しかし、そんな彼の生活を揺るがす事件が起こり•••••。
日本風に言えば、義理人情、任侠、という世界か。モモン(エドモン)は人の道を外れようとしない。その人の道とは、仲間を裏切らない。友を信用する。ということである。寡黙でよけいなことを言わないモモンは魅力的だ。自分の感情を表に現すことなく、言葉をのみこみ、グッと奥歯を噛み締めている。モモン役のジェラール•ランヴァンがいい。これこそ燻し銀の魅力だ。回想の場面に登場するシトロエンDSは魅力的だ。1955年発表された、フランスの前輪駆動大型車である。ド•ゴール大統領など政府官僚の公用車として利用された。もちろんギャングも頻繁に利用した。思えば、子供の頃の私にとって、フランスといえば、「シトロエン」だった。
傾城阿波の鳴門/冥途の飛脚
東京国立劇場小劇場第180回文楽公演 平成二十四年九月
門左衛門に私淑し、自ら近松半二と名乗った穂積成章の『傾城阿波の鳴門』という作品。阿波徳島に置いてきた自分の娘にてをかけてしまう、という話。文楽にはこのような話がよくある。おそらく当時の人々は、そのような話に涙し、人の世のはかなさを感じたのだろう。
『冥途の飛脚』は、ご存知近松門左衛門の作品。淡路町の飛脚屋亀谷の忠兵衛が、遊女梅川を身請けしようと、店の金に手をつけてしまう。そんなところに粋な男、丹波屋八右衛門がいろんな方法で手をさしのべようとするが、忠兵衛にはなかなかわからない。「傾城に誠無し」といわれるように、八右衛門はなんとか梅川から手を引かせて、きちんとした商売人に戻そうとするが、とうとう諦める。そして、忠兵衛と梅川は、手に手を取って逃げるのだった。
梅川(人形:桐竹堪十郎)忠兵衛(人形:吉田和生)がとてもいい。心の細かな揺れを見事に表現している。前髪がぷるぷる震えるところに、やはり繊細な感情が映し出されて行く。
ANTI anti anti H的立場
反日の嵐が吹き荒れている(かもしれない)。正しくは、「反日感情」(anti-Japanese feeling)。つまり感情なのだ。デモの様子を報道で見ていると、まさに感情がむきだしだ。感情と感情がぶつかると、争いが起こる。すべての戦争は、この感情から起こったに違いない。お偉いさんが「話し合いで」と言ったところで、有史以来領土問題が「話し合い」で解決したことがあるのだろうか。かといって、「国際的な裁判」?。世界に共通する法律があるのだろうか。近代国家は近代兵器と軍事国家を生んだ。
デモ隊の中に、毛沢東の写真を持つ人々がいる。「なぜ?」と単純な疑問がわき起こった。現代では毛沢東批判が多いのに。毛沢東は、「金持ちから奪って人民に広く分配した」ことになっているはず。そして共産主義になったはず。「人民の海の中に溺れ死ぬだろう」と言ったのは毛沢東。毛主席の写真を掲げていた人たちは、貧富のことを考えていたのではないだろうか、と思ってしまう。いずれにしても一括りで判断することはできない。しかし、報道はデモの最前列しか映し出さないし、原発反対のデモは報道しないで、ひたすら反日デモをこれでもかこれでもかというように流して、恐怖心を煽っているとしか思えない。
登録:
投稿 (Atom)