2019年9月23日月曜日

9月の映画狂No.9


人生をしまう時間(とき)

               監督:下村 幸子  2019年 日本

 NHKエンタープライズ下村幸子のドキュメンタリー作品。BS1で放映されたのが評判となり、映画作品として再編集された。埼玉の新座市にある堀ノ内病院のふたりの医師と看護師、そして患者さんの記録である。
 それぞれの事情を抱え、最後を自宅で迎える。在宅医療とは、ターミナルケアとは、死とは、家族とは。病院ではなくどうして自宅なのか、これはさまざまにいろんな条件や事情や制度など複雑に絡んでいるように思う。私の中学高校の同級生も四十代で他界したが、自宅で最後を迎えた。彼の人生はけっこう苦労が多かったと思う。ここに登場する患者さんと医師たちの心の交流は極めて人間的な温かみに溢れていた。全盲の娘に看取られて静かに去って行く父親。最後のとき小堀医師(80歳)はその場から離れる。家族だけの共有の場所と時間を邪魔してはならないという思いなのだろう。医療現場ではほとんどそのようなことはない。死亡時刻はしっかりと医者が確認しなければならず、不可逆的状況なのに最後の手立てをしようとする。個人的な体験であるが、40年ぐらい以前父親が57歳で世を去ったが、病院での最後は母親以外はみな病室を追い出されてしまった。20代だった私は、いいようのない不条理を感じた。しかし、いまもって基本は変化していない。医師としての常識を逸脱する小堀医師の行動は極めて人間的であった。
 52歳の余命いくばくもない娘と暮らす70代の母。そこに静かに寄り添う堀越医師(58歳)がいる。病状をごまかすことなく伝える。死の直前は終わりを迎える穏やかさともいえる表情を湛えていた。最期はみな穏やかである。
 最期をむかえる人と家族には、言葉が必要だ。むしろ言葉しか必要ではないのかもしれない。「はじめに言葉あり、言葉は神と共にあり、言葉は神なりき」という私が若いころ接した言葉を思い出す、聖書ヨハネの福音書である。医師の到達点は言葉なのかもしれない。もちろん聴力が不自由なひとは手が言葉だろうと思う。
 堀越医師も小堀医師も外科医だった。すこし乱暴かもしれないが、外科医には言葉はいらない。素早い判断と完璧な手術の能力が必要とされる。堀越医師は国際医療センターの職員として、開発途上国をまわり活動してきた。マザーテレサの「死を待つ人の家」を訪れたときに感じたことを考え続け、自分の不得意な終末期に向かい合う場に居ようと決断した。小堀医院は、東大病院などで外科医を務め定年を迎えた。そしていままでの自分は職人的なところに走り過ぎた、これが反省だ。と言っていた。そしていまは堀ノ内病院に身を置く。小堀鷗一郎80歳、母親は小堀杏奴、明治の文豪であり軍医総監森鷗外の娘である。
 上映終了後の舞台挨拶で小堀医師が語る。この患者さんはすばらしい人だ、業績があるわけでも勲章をもらっている人でもない。しかし豊かな物語をもっている人だ、と。




      堀越洋一医師   小堀鷗一郎医師  下村幸子監督



9月の映画狂No.8


人間失格


                   監督:蜷川実花     2019 日本 

  この作品の感想を書くつもりはなかった。それと、特に観たいという欲求もあまりなかったのだが、藤原竜也が坂口安吾を高良健吾が三島由紀夫を演じている予告編を観て、一応文学分野畑であるので確認しようと近場の上映館に行った。
 蜷川の写真や映像作品を完全に理解しているわけではなく、どちらかというと感性が合わないと思っていたが、今回においても同じだった。どうしてこんなにも蜷川が注目され、評価を受けているのだろうか。それともそれを理解できない私自身に問題があるのだろうか、なんとも判断できない。写真も映像もどぎつい原色が目を指す。原色どころか、蛍光色と言ってもいいかもしれない。フィジカルに視覚上直接的に網膜に訴えかけてくる。そこに何かしらの実験性や裏切りという策略があるとも思えない。映像的には鈴木清順に近いとも思える。ただ鈴木清順の徹底した策略に支えられた邪悪な感じは私自身には感じられなかった。短い場面が次から次へとカット割りのように差し込んでくる。映像作品として蜷川の独創性があるのだろうか、深層の奥に深まってゆく物語性を追求する作家ではなく、あくまでも映像の表層を表現する作家だと思うので、そこが勝負だろうと思う。坂口安吾の言葉や、バールパンの様子などには興味惹かれるが、太宰という存在そのものに迫ってゆくということが目的ではない。3人の女性たちの深層に迫るというわけでもない。そうであるならば、もっと感情の抑制と激流が交互に紡ぎ出されていいのではないかと思う。太宰治を素材としたアーティストのプロモーションビデオならば映像として理解できる。120分の物語作品としては、私の理解領域から外れてしまう。
 まあ、市井の老人の戯言であるのでご容赦いただきたい。


9月の映画狂No.7


今さら言えない小さな秘密

               原題:RAOUL  TABURIN
                                                              
                                                               監督:ピエール・ゴドー  2018年フランス
 楽しい作品。ジャン=ジャック・サンペ(作家・イラストレーター・漫画家)の絵本が原作。脚本は『アメリ』のギヨーム・ローランが関わっている。楽しい作品ではあるが、楽しいだけではなく、少し切ない。しかし主人公ラウルにとっては少しどころか、人生最大の苦痛なのだ。個人にとっては最大級の問題だが、他にとってはなんということもない小さなこと、そこがユーモアの源泉なのかもしれない。20代後半のころギリシャ美術史家の故前田正明先生から話を伺ったことがある「一般庶民の悲劇はコメディであり、王侯貴族の悲劇がトラジディだ」と。90分のなかで、ほんの一言であったが未だに忘れることができない話だった。この作品を観たときそのことが思い起こされた。
 南フランスのとある村、ラウル・タビュラン(ブノワ・ボールヴェールド)は評判のいい自転屋さんだ。あっという間に不具合を直し、村人は自転車のことをタビュランと呼ぶようになった。美しい妻(スザンヌ・クレマン)と、ふたりの子供に恵まれ、穏やかな村の人々に囲まれた温和なおじさん。しかし彼は自転車に乗れなかったのだ。これが彼にとって生涯守るべき秘密だったのだ。誰も知らない真実。何かに理由をつけて自転車に乗らないようにしていたのだが、有名な写真家が村に現れ、彼を取材したいと言い出した。この窮地をどうしたら逃れることができるのか、策略が空回りし続ける。
 私などは、自転車に乗れないぐらいなんでもなかろう、と思うのだったが。作者サンペは幼少の頃から、貧しい生活を支えるための道具として自転車は必需のものだった。しかし思えば、洋の東西を問わず、昔の自転車は仕事で使うものだった。古いイタリア映画でも粗末な自転車はよく出てくる。中国映画にだって出てくる。しかし現在はピチピチのサイクルジャージに身を包み、高級なロードレーサーをかっ飛ばしている中高年のなんと多いことか。フランスはましてトゥール・ド・フランスの聖地ではあるまいか。フランス人は自転車に特別な思い入れがあるのだろうか。余計な方向にずれてしまったが、小さな秘密が劣等感となることは多いが、誰もがそんなことを抱えているのではないか、いっそ言ってみたら心が軽くなり、みんながほっとするのかもしれない。
 面白く楽しい作品のなかに、とても大切なことがこっそり隠されているような、良質の作品であった。
 ひとこと、邦題がまたまた客よせ意識。「ラウル・タビュラン」という個人名がいいのだ。これは個人の問題が複数の他、つまり世間と言い換えてもいいかもしれないが、その評価の意味を考えさせられていると思うのだ。





2019年9月22日日曜日

9月の映画狂No.6



プライベート・ウォー

        監督:マシュー・ハイネマン  2018 イギリス・アメリカ

 監督は『カルテルランド』などの硬質な作品を発表しているマシュー・ハイネマン。世界の不条理に対して、彼のカメラは鋭い視点で切り込んでいる。日本用のフライヤーでひとつ気に入らないところがある。「挑む女は美しい」というキャッチコピーだ。この男目線の一言で作品を台無しにしてしまう。反省してほしいものだ。
 われわれはこの作品をしっかりと受け止め、戦争や紛争の地域が確かにこの地上にあることを考えなければならない。ジャーナリスト、メリー・コルヴィンを知っているだろうか。恥ずかしながら私が初めて知ったのは『バハールの涙』という映像作品でその存在を知った。女性クルド人と戦場行動をともにする片目の女性ジャーナリストが、メリー・コルヴィンという人をモデルとしていたということだった。メリー・コルヴィンは、1956年生まれのアメリカ人。UPIのパリ支局長の後、イギリスのサンデー・タイムスに移籍し、海外記者として戦地を取材しつづける。スリランカ内戦で左目を失い、極度のPTSDに苦しむ。しかし彼女は戦場のありさまを取材し世界に発信するという自らの使命を優先する。彼女の最後の地はシリアだった。政府は反体制の砲撃で亡くなったと発表したが、カメラマンのポール・コンロイは政府軍のメディアセンターを狙った攻撃だったと証言。彼女はシリア政府の嘘を暴き、狙われていた。戦争に巻き込まれたのではなく、ターゲットにされていた。ものすごい人だ。このようなジャーナリストたちが存在するので、我々は世界の不条理を知ることができる。そして真実を追求することが、とりもなおさずこの世界を救う糸口になるに違いないと私は確信する。私の一歳下、そして56歳で命を落とした。感慨深いものがある。
 メリー役にロザムンド・パイク。ポール役にジェイミー・ドーナン。








9月の映画狂No.5



やつぱり契約破棄していいですか!?

原題:DEAD IN A WEEK(OR YOUR MONEY BACK)

             監督:脚本 トム・エドモンズ    2018  イギリス

 アイデアとしてはそれど珍しくない。記憶に新しいのは1990年のアキ・カウリスマキの『コンタクト・キラー』(フィンランド・スウェーデン)とどう違うのか。会社をクビになった孤独な主人公が、自殺もうまくできなくて殺し屋を雇ってしまう。しかしその後恋人ができてしまって・・・。というのが、『コンタクト・キラー』(イギリスで撮影)だった。
 そしてこの作品だが、内容はほとんど同じ。小説家を目指していたウイリアム(アナイン・バナード)は作品が書けず、いっそ自殺したいと思うようになり、さまざまな方法を試すがうまくいかない。とうとう外部委託を選ぶのだ。そこに英国暗殺者組合のレスリー(トム・ウィルキンソン)に殺し屋があらわれる。彼はノルマを達成できず、組合を除名されようとしている。妻にはそろそろ引退したら、と言われるが根っからの仕事人であり、なかなか決心がつかない。
 このような物語は、ユーモアがなければつまらない。なぜなら、SNSで自殺願望者を探してその手助けをする、という犯罪が実際にあり、ともすれば作品のアイデアに社会的倫理感を持ち込んでしまう可能性があると思うからだ。しかし、それは杞憂かもしれないが。依頼人の青年と殺し屋の老人のバタバタが面白い。生死、生活、社会など普遍的なテーマにも繋がる。徹底的なコメディの先に、真摯なテーマがある。それがいい。








2019年9月18日水曜日

9月の映画狂No.4


 ラスト・ムービースター

      監督:脚本 アダム・リフキン 2017年 アメリカ 

 バート・レイノルズはハリウッドスターだ。ハリウッドが似合うというよりハリウッドそのものと言ったほうがいいかもしれない。何が言いたいかというと、カンヌやベネチアと対局的な存在だということである。この作品の中で頻繁にクリント・イーストウッドと比べる場面があるが、スターのヴィッグ・エドワーズ(レイノルズ)は、作品の選択がいけなかった、と言う。ふたりはともに活動期を同じくした俳優であり、アクションを中心とした俳優だった。しかし、イーストウッドは徐々に作品の質にこだわるようになった。イーストウッドの評価はいまでは硬質で良質な作品を生み出す映画作家である。もちろん往年のアクションスターが、そのままレベルを保ちながら老年まで続けることはないだろう。しかし、この主人公エドワーズは晩年を迎えても、ジタバタジタバタしている。このジタバタ感がなんとも愛しいのだ。思えば、ほとんどの男たちはこのジタバタで老後を迎えているのではないだろうか。
 往年のアクションスターエドワーズ(バート・レイノルズ)は、ひとり豪邸で過ごしている。体も思うようにならず、愛犬と寄り添いながら生活していたのだが、その愛犬も老犬となり余命を全うする。喪失感におそわれるエドワーズだが、そこにファンの若者から映画祭への招待状が届く。彼は友人に説得されその映画祭に老体を引きずるようにしして参加するが、なんとその映画祭は場末の居酒屋で開催される若者たちのお祭り騒ぎだったのだ。憤懣遣る方無いエドワーズと若者たちのゴタゴタジタバタが、なんとも言えないユーモアに包まれ、優しい作品になっている。エドワースと若者たちはお互いに理解し合い、相互の信頼と尊敬が深まる。
 バート・レイノルズはなんともいい表情だ。人としていい年の取り方をして来たのかも知れない。昔は性欲男にしか見えなかったが、老年のレイノルズは悲哀がに滲み出ていていい。昨年2018年、82歳の人生を終えた。        



2019年9月12日木曜日

9月の映画狂No.3



ジョアン・ジルベルトを探して
原題:Where are you, João GILBERTO?

                                          監督:ジョルジュ・ガショ  2018 ドイツ・フランス・スイス
                 言語:ドイツ語・フランス語・ポルトガル語・英語

  ジョアン・ジルベルトとは何者か、ボサノバと言えば誰もが聴いたことがある音楽だと思うが、その伝説的存在がジルベルトである。1931年ブラジルに生まれ、2019の7月、つい最近亡くなった歌手である。カルロス・ジョビンなどとともに、ボサノバの創設者と言われる。彼は2008年以降、他との交渉を絶った。自室で昼夜逆転の生活をしていたとも、食事は常にドアの前に置かれて処理されていたとも、さまざまに伝説が流れる。まるで引き籠りのような生活だ。なぜ彼は姿を消したのか、その真相は誰も知らない。
 マーク・フィッシャーというドイツの作家・ジャーナリストがいた。40歳で自らの命を絶ったのだが、この男がジョアンを探していた。マークはブラジル中いや世界中ジョアンを探し続けた。もちろん、所在はわかるが、絶対に会うことを拒否し続けるジョアン。単純な発想でマークの精神を分析することはできないが、彼の文学や世界への対処の仕方は、実に内省的なものだったのではないだろうか、そう思えてならない。そのマークを中心軸にして、監督ジュルジュ・ガショはジョアンを探す旅を続ける。マークがたどった場所を忠実になぞりながら、ジョアンの謎を解き明かそうとしているのだが、じつはマークの存在そのものが浮き彫りにされてくる。
 





2019年9月7日土曜日

9月の映画狂No.2

  メランコリック

               脚本:監督 田中征爾    2018 日本

 プロデューサー兼主人公鍋岡和彦役:皆川暢二。殺し屋松本晃役:磯崎義知。監督:田中征爾の三人には共通点がある。それぞれ1988年89年の生まれであり、皆川はワーキングホリデーでカナダへ、田中はカリフォルニアの大学、磯崎はロンドンで演劇の修行。前向きの若い世代だ。
 この作品の面白さは、銭湯には夜の顔があるという発想だ。銭湯で人を処刑し、お湯を沸かす窯場で屍体の処理をするというなんとも合理的なことだ。なるほど、すべては銭湯で完結できて、危険性が極めて低い。そしてこれをユーモラスに扱う。ユーモラスに扱うためには余計な説明や、社会性を作品に持ち込まないことだ。もし、この設定で韓国での作品であったならば、真っ向から攻めて行く作品になるだろう。どちらがどうだ、ということではなく、この三人の映像作りの面白さということになるだろう。ただ作品として普遍的なものを追求する方向ではない。ところどころにウイットの利いたところもある。皆川と松本が飲みに行って、こんな話になる。皆川は東大を卒業しているのが、なんで一回も就職したことがなく、フリーターなんだ。と松本が詰め寄る。皆川は、なんで東大出たらいい会社に行っていい生活しなければならないんだ。逆に皆川が松本に詰め寄る。趣味があるのか、楽しいのか。それにたいして松本は言う、なんで楽しくなけりゃいけないんだ。なるほど、本来大学というところは、勉強したくて行くところであって、就職とかに有利になるということは関係ないはずであり、楽しく人生を送るために趣味は必要だというのもステレオタイプの考え方かもしれない。すべての人間が楽しい人生を送っているかどうかは、はなはだ疑わしい。ほとんどの国民は生活のため自分自身を犠牲にして生活しているのかもしれない。こんなことは当たり前といえば当たり前であり、あえて真正面から問われると、鼻白んでしまう。
 皆川に恋人ができたり、松本は謎が多かったり、その場その場の展開が巧妙である。ヤクザに脅されて店主が殺しの片棒を担いでることがすべての始まりであるが、なんだかすべてがあっけらかんとしている。爽快でもある。長編作品最初のチャレンジであるらしいのだが、面白い。映画史になんの貢献もしないが、なんとも面白く優れた作品である。
 銭湯の入り口の場面で、住所が猫実4丁目という文字が見える。千葉県浦安の猫実4丁目にある実際の「松の湯」がロケ地になっている。

2019年9月5日木曜日

9月の映画狂No.1


火口のふたり


                脚本監督:荒井晴彦        日本

 白石一文の同名小説の映画化、荒井晴彦は監督よりも脚本が多い。登場人物は柄本佑と滝内公美のふたりで他の人物はでてこない。これだけでもこの作品がどんなものであるのか想像できると思う。わたしはこの小説を読んだことがなく、今後読む予定もないので文学的に判断することは避けようと思う。ふたりの会話と性描写のみでこの映像作品は成立している。社会と個の関係を問いながら疑い、そして個としてそれを解釈する。彼女と彼はかつて恋人であったが、別れて数年が経つ。彼女はアルバイト生活をしていたが、自衛隊員と知り合い結婚が間近に迫っている。彼は結婚し子供がいるが、離婚していまはプータローだ。そんなふたりが、地元で再び会い性に溺れて行く。ふたりの生活環境は確かに社会との関係、あるいは社会が作り出している。人はみな社会的存在であるならば、その構図から逃れることはできない。しかし、その対にあることがSEXなのかもしれない。SEXは極めて限定的な空間でありながら、人間社会において普遍的なことである。こんなことを基軸として考えて行くと、さまざまに理屈付けが可能になってくる。それが存在論として妥当なこともあるが、たんなる屁理屈も出てくる。しかし、個人的にこの屁理屈をこねることが面白い。なぜならこの理屈は他に作用することもなく、わたし自身の思考の中で行われ完結するからである。そしてその先にわたし自身としての結論が導き出される。
 ふたりのSEXはときとして、限定区間から抜け出そうとする。ビルの隙間やバスの中だ。つまり公的空間である。これを単純にタブー視していいかどうか。おそらく議論の場があれば、「社会的に」ということを述べる人は多いと思う。そこには「社会的」という接頭語が必ずと言っていいほど付される。社会と個の関係、国家と存在の関係。このことをSEXをキーワードとして考える。世界には多様に性表現の文芸があるが、その重要性はあるのだ。しかし、これがいかに弾圧されてきたかということも歴史的な事実。
 しかし、ここまで述べてきて、ピンク映画とどう違うのだという考えも頭を持ち上げてくる。難しいのであるが、欲情を刺激するかどうか、それが第一義のテーマとしてあるかどうか、ということも考えられる。しかし、欲情を刺激されて何が悪いのかということもある。割り切ろうと思うからいけないのかもしれない。割り切れなさを抱えるということが文芸的なこと。