火口のふたり
脚本監督:荒井晴彦 日本
白石一文の同名小説の映画化、荒井晴彦は監督よりも脚本が多い。登場人物は柄本佑と滝内公美のふたりで他の人物はでてこない。これだけでもこの作品がどんなものであるのか想像できると思う。わたしはこの小説を読んだことがなく、今後読む予定もないので文学的に判断することは避けようと思う。ふたりの会話と性描写のみでこの映像作品は成立している。社会と個の関係を問いながら疑い、そして個としてそれを解釈する。彼女と彼はかつて恋人であったが、別れて数年が経つ。彼女はアルバイト生活をしていたが、自衛隊員と知り合い結婚が間近に迫っている。彼は結婚し子供がいるが、離婚していまはプータローだ。そんなふたりが、地元で再び会い性に溺れて行く。ふたりの生活環境は確かに社会との関係、あるいは社会が作り出している。人はみな社会的存在であるならば、その構図から逃れることはできない。しかし、その対にあることがSEXなのかもしれない。SEXは極めて限定的な空間でありながら、人間社会において普遍的なことである。こんなことを基軸として考えて行くと、さまざまに理屈付けが可能になってくる。それが存在論として妥当なこともあるが、たんなる屁理屈も出てくる。しかし、個人的にこの屁理屈をこねることが面白い。なぜならこの理屈は他に作用することもなく、わたし自身の思考の中で行われ完結するからである。そしてその先にわたし自身としての結論が導き出される。
ふたりのSEXはときとして、限定区間から抜け出そうとする。ビルの隙間やバスの中だ。つまり公的空間である。これを単純にタブー視していいかどうか。おそらく議論の場があれば、「社会的に」ということを述べる人は多いと思う。そこには「社会的」という接頭語が必ずと言っていいほど付される。社会と個の関係、国家と存在の関係。このことをSEXをキーワードとして考える。世界には多様に性表現の文芸があるが、その重要性はあるのだ。しかし、これがいかに弾圧されてきたかということも歴史的な事実。
しかし、ここまで述べてきて、ピンク映画とどう違うのだという考えも頭を持ち上げてくる。難しいのであるが、欲情を刺激するかどうか、それが第一義のテーマとしてあるかどうか、ということも考えられる。しかし、欲情を刺激されて何が悪いのかということもある。割り切ろうと思うからいけないのかもしれない。割り切れなさを抱えるということが文芸的なこと。