2013年2月23日土曜日

H的立場ー2

 沖縄普天間基地移転を、名護市辺野古にするという日米合意を速やかに進める。ということをAちゃんは、オバマと会談して決めた。沖縄のN知事は「県民はなるべく県外へ出してもらいたいという強い願いがある」と言ったが、Aちゃんは、「普天間基地の固定化は、絶対あってはならないことですので、米国との合意の中で進めていきたい」と、なんだか会話になっていなかった。たぶん本気で会話をしたくなかったのだろう。はっきり言わない。「日米の合意」という言葉を持ち出す。マスコミも実におとなしいものだ。ハトちゃんが、辺野古ではなく最低でも県外ということことを言い出し、それがかなわないことで大批判シュプレヒコールを繰り広げたが、すべてはゼロベースで元の木阿弥、白紙撤回したAちゃんには批判はしない。そう、批判は怖い。そしてAちゃんは「沖縄振興予算を3,001億円計上した」とまたまた札ビラを切って、相手の両頬をぴたぴた。あげく、「この3年間の間に失われた、国と沖縄県との信頼関係を再構築する」と言う。なんでもかんでも前政権が悪いという話に持って行く。このレトリックは誰が指導しているのだろう。辺野古に移転することを琉球の人々は願っているのだろうか?県外移設を願っているんでしょ。オバマと決めたことは誰も反対できないでしょ、と言うことなのだろうか。オバマと話さなくても、前から決めていたのにね。自分のバックには、大アメリカ国家と米国防総省という光背があるのだ。という意識かな。
 Aちゃんは何を「とりもろす」のだろう。以前「美しい国、美しい国」と連発していた。美しい国、美しい沖縄の海、ジュゴンの未来は「とりもろさない」のだろうか。「日米安全保障条約」をとりもろしたら琉球はとりもろせないでしょ。昔から美しい日本のことわざに、「二兎を追うものは一兎をも得ず」とある。

H的立場ー1

 Nちゃんも、Aちゃんも所詮「同じ穴の狢」という感多々である。A国の◯◯◯に参加すべきとのNちゃんから政権がかわり、Aちゃんは当初◯◯◯参加には意欲的ではない発言を繰り返していた。そのうち、「聖域なき」は考えないという発言になったのだが、わざわざ税金を使って、A国に行き「飛んで火にいる夏の虫」ということになった。というよりも、最初からこのシナリオは決まっていて、演出通りに芝居が運んでいるというほうが、真実を突いているだろう。やっぱりという思いがあり、またもや私の心を鬱にしてしまう。
 すべてはA国のいいなり。昔からいいなりだったが、またまたいいなり。それにしても、わざわざ大きな旅客機に乗って、A国に行かなくたっていいのではないか、と思う。そんなに◯◯◯に参加させたいならば、向こうからお土産をいっぱい持ってくればいいではないか。結局呼びつけられたのか、と思ってしまう。R国からも、◯◯領土の件について、Aちゃんに訪問して欲しいと言っている。これも体のいい呼びつけか。
 つらつら思う「絶対A国なんかの言うことを聞かないぞ!お前こそ帝国主義の悪人だ」という姿勢を貫いている、北◯◯国や、中◯や、中東の一部の人々のことを。A国の価値基準のみで判断していいものか。ダメなものはダメという態度は悪いことではないはず。A国の言葉が、実質世界の共通語になったように、すべてのものをA国化してはならないと思う。

九条美術展

 第3回「九条美術展」(4•16〜21)に参加することにした。王子でやったときから参加しているが、今回は仕事の都合で参加できないと思っていたところ、事務局から電話をいただいた。小品なら郵送でもいいから参加して欲しいということで、小品を出品することにした。先日DMとチラシが届いた。
 「九条美術展」という名称を聞き、イデオロギーが強い政治団体のことを想起する人がいる。しかし、憲法を変えて集団的自衛権(同盟国の安全のために、重火器を携えて中東などの前線基地に派兵する)を確立しょうという政策が現実味を帯びてきている現在、すべての党派を超えて、意思表示をすることが必要であると思う。自分の作品を発表することでアンチの姿勢を示すことになればいい。
 埼玉近代美術館での3回目となる「九条美術展」である。

2013年2月17日日曜日

エル•グレコ


 金曜は夜まで美術館が開館している。その日は2月8日、寒い金曜日だった。リニューアルされてはじめての東京都美術館。スペインの巨匠エル•グレコ没後400年、大きな回顧展だ。40年以上も前のこと、東北の田舎町でこの巨匠の存在を知った。エル•グレコの作品をまとめて見ることが出来る。それも縦3メートルを超える大作『無原罪のお宿り』が展示されるのだ。寒い夜でも心はうきうきして出かけた。
 1541年ギリシャのクレタ島に生まれた。名はドメニコス•テオトコスプーロス。その後ローマに行き、35歳ほどでスペインに渡りエル•グリエゴ•デ•トレドとして知られることになった。エル•グリエゴ•デ•トレド(EL Griego de Toledo)スペイン語で「トレドのギリシャ人」という意味だ。そして、いまは「EL Greco   エル•グレコ」という名で知られる。しなった身体に上を向いた目、独特の人物像だ。はるか昔にエル•グレコの映画作品を見たような気がする。1966年にルチアーノ•サルチェという監督が作った作品だろうか、劇場では未公開でTVでは放映されたと記録にある。高校生のころだったろうかと思うので、TVでこの作品を見たのだろうか、キリストの頭より上に人々が描かれているという罪で宗教裁判にかけられるという場面があり、強い印象になっている。18世紀以前のヨーロッパの代表的な画家「オールド•マスター」に数え上げられる画家だ。
 グレコの作品では好きなものと、そうでもないものがある。今回の回顧展の作品では特に1600年頃の作品『フリアン•ロメロと守護聖人』(206.7×127.5)が好きだ。守護聖人がいい。個人的にエロスを感じてしまう。また同じころに描かれた『ある枢機卿の肖像』(57×46)の小品もいい。会場最後に『無原罪のお宿り』がある。この大作は、全体像が見たいからといって、後ろに引いて見てはいけない。あくまでも作品の間近で、それも下から見上げなければ真の意味が見えてこないように思う。腰を落として見ていたら、となりで見ていた人がしゃがんで見始めた。そうそれでいい。充分作品を堪能して出口に向かい、フッと振り返ったら、みんながしゃがみこんでいた。
 すこしばかりお酒をのみ、遅い夕飯を食べて帰途についた。

子供の頃『青空布団の物語』


 子供の頃、木造二階建の二階部分は一階の部分よりも広さは小さかった。つまり、二階の窓から一階の屋根にひょいと出ることができた。そんな感じで物干し台などがある家もあった。青空の日などは、一階の屋根にふとんを干していたので、わたしは誰もみていないことをいいことに、暖かいふとんにゴロッと横になり青空を見上げていた。
 さまざまな空想にふけっていた子供の頃であった。空を見ていると、そのまま空に吸い込まれて行くような感じがしてならなかった。吸い込まれるというか、感覚としては空に落ちて行くという感じだ。ひとりで、そんなことばかりしていた。現在の家は、屋根におりることが出来ないので、そんなこともできない。そう、屋根に上がるではなく、屋根に下りるということだった。
 その後、国語の教科書で「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」という石川啄木の歌に出会い、感慨深いものがあった。

Cesare deve morire 邦題『塀の中のジュリアス•シーザー』


 2012年 イタリア 
         監督•脚本 パオロ•タヴィアーニ/ヴィットリオ•タヴィアーニ

 ローマ郊外にあるレビッビア刑務所では受刑者に定期的に演劇演習をやらせている。この作品は、実際にその刑務所で撮影されていたドキュメントである。ブルータス役のサルバトーレ•ストリアーノは、実際にレビッビアで刑を終えた人間であり、現在俳優をしているのだが、この作品のため受刑者の役として参加している。受刑者の役でありブルータスの役でもあるというおもしろい立場である。
 このような刑務所の存在を知ることも、その状態を知ることもなかなかできないが、映画作品によって、その存在を知ることになりなかなか興味深い。演劇の稽古によくありがちな俳優たちのトラブルもあり、塀の外となんら変わることがない。みんな役者として鍛えられているので、見ていてドキュメンタリーのような感じがしない。
 とても興味深く、おもしろい。

Comme un Chef 邦題『シェフ』

 
 2012年 フランス  監督•脚本:ダニエル•コーエン

 
 パリの三ツ星レストランのシェフ、アレクサンドル(ジャン•レノ)は新作メニューが生まれず、オーナーとの仲もギクシャクしている。二代目のオーナー、スタニスラス(ジュリアン•ボワッスリエ)はアレクサンドルを首にして、時代の最先端「分子ガストロノミー」に変えようかとも考えていた。そんなとき生意気なシェフ志望の若者ボノ(ミカエル•ユーン)と出会う。アレクサンドルはボノを認めることはできないと思いつつも、かつて作っていた自分の料理を事細かに知り、再現できるボノは無視できない。話はドンドン元気に進み、コミカルであるが、三ツ星調査のことや分子料理のこと、スペインの「エルブリ」フェラン•アドリアの皮肉など、なかなかに見応えがあった。とても元気になる作品。それにしても、分子ガストロノミーというのは一体なんなのだろうか。料理の世界も、探れば探るほど奥深い。ロブションやデュカスなどのシェフを調べたりすると、もうさまざまなことを知ることになり、それだけでも膨大な時間が必要になってくる。

JIRO DREAMS OF SUSHI 邦題『二郎は鮨の夢を見る』


 2011年•アメリカ  監督:デヴィット•ゲルブ 

 銀座4丁目にあるビルの地下、『すきやばし次郎』というお店があるらしい。もちろん私は行ったことはない。そこに87歳になる寿司職人小野二郎が毎日立っている。ミシュラン三ツ星、六年連続。お手洗いはお店を出て、ビルの中。そしてミシュラン三ツ星では最高齢の職人。ミシュラン審査員フランスのシェフ、ジョエル•ロブションが絶賛するお店。このドキュメンタリーは小野二郎と二人の息子を追う。頑固一徹な職人の毎日はとても厳しいものだ。とにかく自分自身にとても厳しい。いつ行っても期待を裏切らなく、いついかなるときでもレベルを落とさない。超一流の職人というのはすごいものだと、ただただ感心するばかりである。
 鮨以外のものはなく、料金は一人前3万円〜。すべて予約制。うーん、たぶん私が行くことはないだろう。私は、『鮨勘』か『鈴木水産』に行くぐらいだ。
  

2013年2月13日水曜日

Le Premier Homme 邦題『最初の人間』


 ジャン•アメリオ監督  2011 仏/伊/アルジェリア

 アルベール•カミュ(1913〜1960)の未完小説『最初の人間』の映画化。カミュはアルジェリア出身。2013年1月、日本人10人がテロの犠牲になったアルジェリアである。仏領アルジェリアは悲しい歴史を背負っている。いや、これはアルジェリアだけの問題ではなく、全アフリカが置かれた状況なのだろう。カミュは貧しい家に育った。母も叔父もみな文盲である。家庭状況を考えると、とても高教育を受けることはできない存在であった。しかし、カミュの才能を感じた恩師の努力で、奨学金を得て中学に進むことができ、やがてアルジェ大学文学部に進む。
 この物語は、そのカミュの自伝的なものである。フランスで作家として評価され、ノーベル文学賞を受賞した作家は、故郷アルジェリアに住む母のもとに訪れる。大学で講演を頼まれるが、独立派などから激しい批判を受ける。作家は徹底的にテロリズムを否定する。そして対テロの武力もまた否定する。それがなかなか理解されない。作家に対する批判は「曖昧」ということだ。しかし、思うにこの「曖昧」というのは、極めて文学的な思考から導き出されたパロールに他ならない。象徴的な言説、示唆的な言葉。直線的なアンガージュの立場からすれば、まどろっこしくて論理性がないということになるのかもしれない。しかし、世界はもっと複雑であり、文学者の言葉は、そこから何かを読み取ろうとしなければ、見えてこない。無自覚に与えられるものではないからである。作家はフランスとアルジェリアの両方のアイデンティティーに引き裂かれながらも、自分の出自に対して限りない愛念を抱いている。
 作家がカフェで何か書きものをしてるとき、路上で激しい爆発が起きる。車が炎上し、多数の人々が犠牲者になっている。この状況は今も昔も変わらないのだ。なんということだろうか、世界にはこのような国がたくさん存在するのだ。
 作家ジャック•コルムリ(カミュ)のジャック•ガンブランがいい。寡黙な哲人だ。私より2歳年下の俳優だが、このような雰囲気をまとったUn hommeにあこがれる。

BARBARA  邦題『東ベルリンから来た女』


 
  2012/ドイツ 監督・脚本:クリスティアン・ベッツォルト

 
  閑散とした風景が広がる。時々風邪が吹くだけの寂しいところ。そこは海に近い東ドイツの小さな病院。1980年頃の話だろうか、バルバラ(ニーナ・ホス)という外科医が着任してくる。しっかりと結ばれた口元と目は、強い意志を感じることができる。そして絶望的な孤独を醸し出している。彼女はシュタージ(秘密警察)に監視されていた。ベルリンの大病院に勤務していたが、西への出国申請が認められず、地方に飛ばされてきたのだった。新しい勤務地にいるアンドレ(ロナルト・ツェアフェルト)は彼女に興味を持つ。それは医師として何か惹きつけるものを持っていると感じたからなのだろう。「孤立しないほうがいい」と助言するが、バルバラははっきりと「孤立させてもらうわ」と言う。
  バルバラ、アンドレ、シュタージのシュッツ(ライナー・ボック)の三人はそれぞれ心の底に抱えられない何かがある。しかし、けして感情をあらわにしたりはしない。寡黙にいつも何かを考え込んでいる。
  作品の中には音楽などは流れない。また説明的なセリフは皆無だ。ひとつひとつの言葉が重く響いてくる。哲学的といってもいい。バルバラ、アンドレの進んだ道は、きびしい意志の力から出た結論だった。
  静かな余韻が波のように広がる。極めて私好みの作品だ。