2019年9月23日月曜日

9月の映画狂No.9


人生をしまう時間(とき)

               監督:下村 幸子  2019年 日本

 NHKエンタープライズ下村幸子のドキュメンタリー作品。BS1で放映されたのが評判となり、映画作品として再編集された。埼玉の新座市にある堀ノ内病院のふたりの医師と看護師、そして患者さんの記録である。
 それぞれの事情を抱え、最後を自宅で迎える。在宅医療とは、ターミナルケアとは、死とは、家族とは。病院ではなくどうして自宅なのか、これはさまざまにいろんな条件や事情や制度など複雑に絡んでいるように思う。私の中学高校の同級生も四十代で他界したが、自宅で最後を迎えた。彼の人生はけっこう苦労が多かったと思う。ここに登場する患者さんと医師たちの心の交流は極めて人間的な温かみに溢れていた。全盲の娘に看取られて静かに去って行く父親。最後のとき小堀医師(80歳)はその場から離れる。家族だけの共有の場所と時間を邪魔してはならないという思いなのだろう。医療現場ではほとんどそのようなことはない。死亡時刻はしっかりと医者が確認しなければならず、不可逆的状況なのに最後の手立てをしようとする。個人的な体験であるが、40年ぐらい以前父親が57歳で世を去ったが、病院での最後は母親以外はみな病室を追い出されてしまった。20代だった私は、いいようのない不条理を感じた。しかし、いまもって基本は変化していない。医師としての常識を逸脱する小堀医師の行動は極めて人間的であった。
 52歳の余命いくばくもない娘と暮らす70代の母。そこに静かに寄り添う堀越医師(58歳)がいる。病状をごまかすことなく伝える。死の直前は終わりを迎える穏やかさともいえる表情を湛えていた。最期はみな穏やかである。
 最期をむかえる人と家族には、言葉が必要だ。むしろ言葉しか必要ではないのかもしれない。「はじめに言葉あり、言葉は神と共にあり、言葉は神なりき」という私が若いころ接した言葉を思い出す、聖書ヨハネの福音書である。医師の到達点は言葉なのかもしれない。もちろん聴力が不自由なひとは手が言葉だろうと思う。
 堀越医師も小堀医師も外科医だった。すこし乱暴かもしれないが、外科医には言葉はいらない。素早い判断と完璧な手術の能力が必要とされる。堀越医師は国際医療センターの職員として、開発途上国をまわり活動してきた。マザーテレサの「死を待つ人の家」を訪れたときに感じたことを考え続け、自分の不得意な終末期に向かい合う場に居ようと決断した。小堀医院は、東大病院などで外科医を務め定年を迎えた。そしていままでの自分は職人的なところに走り過ぎた、これが反省だ。と言っていた。そしていまは堀ノ内病院に身を置く。小堀鷗一郎80歳、母親は小堀杏奴、明治の文豪であり軍医総監森鷗外の娘である。
 上映終了後の舞台挨拶で小堀医師が語る。この患者さんはすばらしい人だ、業績があるわけでも勲章をもらっている人でもない。しかし豊かな物語をもっている人だ、と。




      堀越洋一医師   小堀鷗一郎医師  下村幸子監督



9月の映画狂No.8


人間失格


                   監督:蜷川実花     2019 日本 

  この作品の感想を書くつもりはなかった。それと、特に観たいという欲求もあまりなかったのだが、藤原竜也が坂口安吾を高良健吾が三島由紀夫を演じている予告編を観て、一応文学分野畑であるので確認しようと近場の上映館に行った。
 蜷川の写真や映像作品を完全に理解しているわけではなく、どちらかというと感性が合わないと思っていたが、今回においても同じだった。どうしてこんなにも蜷川が注目され、評価を受けているのだろうか。それともそれを理解できない私自身に問題があるのだろうか、なんとも判断できない。写真も映像もどぎつい原色が目を指す。原色どころか、蛍光色と言ってもいいかもしれない。フィジカルに視覚上直接的に網膜に訴えかけてくる。そこに何かしらの実験性や裏切りという策略があるとも思えない。映像的には鈴木清順に近いとも思える。ただ鈴木清順の徹底した策略に支えられた邪悪な感じは私自身には感じられなかった。短い場面が次から次へとカット割りのように差し込んでくる。映像作品として蜷川の独創性があるのだろうか、深層の奥に深まってゆく物語性を追求する作家ではなく、あくまでも映像の表層を表現する作家だと思うので、そこが勝負だろうと思う。坂口安吾の言葉や、バールパンの様子などには興味惹かれるが、太宰という存在そのものに迫ってゆくということが目的ではない。3人の女性たちの深層に迫るというわけでもない。そうであるならば、もっと感情の抑制と激流が交互に紡ぎ出されていいのではないかと思う。太宰治を素材としたアーティストのプロモーションビデオならば映像として理解できる。120分の物語作品としては、私の理解領域から外れてしまう。
 まあ、市井の老人の戯言であるのでご容赦いただきたい。


9月の映画狂No.7


今さら言えない小さな秘密

               原題:RAOUL  TABURIN
                                                              
                                                               監督:ピエール・ゴドー  2018年フランス
 楽しい作品。ジャン=ジャック・サンペ(作家・イラストレーター・漫画家)の絵本が原作。脚本は『アメリ』のギヨーム・ローランが関わっている。楽しい作品ではあるが、楽しいだけではなく、少し切ない。しかし主人公ラウルにとっては少しどころか、人生最大の苦痛なのだ。個人にとっては最大級の問題だが、他にとってはなんということもない小さなこと、そこがユーモアの源泉なのかもしれない。20代後半のころギリシャ美術史家の故前田正明先生から話を伺ったことがある「一般庶民の悲劇はコメディであり、王侯貴族の悲劇がトラジディだ」と。90分のなかで、ほんの一言であったが未だに忘れることができない話だった。この作品を観たときそのことが思い起こされた。
 南フランスのとある村、ラウル・タビュラン(ブノワ・ボールヴェールド)は評判のいい自転屋さんだ。あっという間に不具合を直し、村人は自転車のことをタビュランと呼ぶようになった。美しい妻(スザンヌ・クレマン)と、ふたりの子供に恵まれ、穏やかな村の人々に囲まれた温和なおじさん。しかし彼は自転車に乗れなかったのだ。これが彼にとって生涯守るべき秘密だったのだ。誰も知らない真実。何かに理由をつけて自転車に乗らないようにしていたのだが、有名な写真家が村に現れ、彼を取材したいと言い出した。この窮地をどうしたら逃れることができるのか、策略が空回りし続ける。
 私などは、自転車に乗れないぐらいなんでもなかろう、と思うのだったが。作者サンペは幼少の頃から、貧しい生活を支えるための道具として自転車は必需のものだった。しかし思えば、洋の東西を問わず、昔の自転車は仕事で使うものだった。古いイタリア映画でも粗末な自転車はよく出てくる。中国映画にだって出てくる。しかし現在はピチピチのサイクルジャージに身を包み、高級なロードレーサーをかっ飛ばしている中高年のなんと多いことか。フランスはましてトゥール・ド・フランスの聖地ではあるまいか。フランス人は自転車に特別な思い入れがあるのだろうか。余計な方向にずれてしまったが、小さな秘密が劣等感となることは多いが、誰もがそんなことを抱えているのではないか、いっそ言ってみたら心が軽くなり、みんながほっとするのかもしれない。
 面白く楽しい作品のなかに、とても大切なことがこっそり隠されているような、良質の作品であった。
 ひとこと、邦題がまたまた客よせ意識。「ラウル・タビュラン」という個人名がいいのだ。これは個人の問題が複数の他、つまり世間と言い換えてもいいかもしれないが、その評価の意味を考えさせられていると思うのだ。





2019年9月22日日曜日

9月の映画狂No.6



プライベート・ウォー

        監督:マシュー・ハイネマン  2018 イギリス・アメリカ

 監督は『カルテルランド』などの硬質な作品を発表しているマシュー・ハイネマン。世界の不条理に対して、彼のカメラは鋭い視点で切り込んでいる。日本用のフライヤーでひとつ気に入らないところがある。「挑む女は美しい」というキャッチコピーだ。この男目線の一言で作品を台無しにしてしまう。反省してほしいものだ。
 われわれはこの作品をしっかりと受け止め、戦争や紛争の地域が確かにこの地上にあることを考えなければならない。ジャーナリスト、メリー・コルヴィンを知っているだろうか。恥ずかしながら私が初めて知ったのは『バハールの涙』という映像作品でその存在を知った。女性クルド人と戦場行動をともにする片目の女性ジャーナリストが、メリー・コルヴィンという人をモデルとしていたということだった。メリー・コルヴィンは、1956年生まれのアメリカ人。UPIのパリ支局長の後、イギリスのサンデー・タイムスに移籍し、海外記者として戦地を取材しつづける。スリランカ内戦で左目を失い、極度のPTSDに苦しむ。しかし彼女は戦場のありさまを取材し世界に発信するという自らの使命を優先する。彼女の最後の地はシリアだった。政府は反体制の砲撃で亡くなったと発表したが、カメラマンのポール・コンロイは政府軍のメディアセンターを狙った攻撃だったと証言。彼女はシリア政府の嘘を暴き、狙われていた。戦争に巻き込まれたのではなく、ターゲットにされていた。ものすごい人だ。このようなジャーナリストたちが存在するので、我々は世界の不条理を知ることができる。そして真実を追求することが、とりもなおさずこの世界を救う糸口になるに違いないと私は確信する。私の一歳下、そして56歳で命を落とした。感慨深いものがある。
 メリー役にロザムンド・パイク。ポール役にジェイミー・ドーナン。








9月の映画狂No.5



やつぱり契約破棄していいですか!?

原題:DEAD IN A WEEK(OR YOUR MONEY BACK)

             監督:脚本 トム・エドモンズ    2018  イギリス

 アイデアとしてはそれど珍しくない。記憶に新しいのは1990年のアキ・カウリスマキの『コンタクト・キラー』(フィンランド・スウェーデン)とどう違うのか。会社をクビになった孤独な主人公が、自殺もうまくできなくて殺し屋を雇ってしまう。しかしその後恋人ができてしまって・・・。というのが、『コンタクト・キラー』(イギリスで撮影)だった。
 そしてこの作品だが、内容はほとんど同じ。小説家を目指していたウイリアム(アナイン・バナード)は作品が書けず、いっそ自殺したいと思うようになり、さまざまな方法を試すがうまくいかない。とうとう外部委託を選ぶのだ。そこに英国暗殺者組合のレスリー(トム・ウィルキンソン)に殺し屋があらわれる。彼はノルマを達成できず、組合を除名されようとしている。妻にはそろそろ引退したら、と言われるが根っからの仕事人であり、なかなか決心がつかない。
 このような物語は、ユーモアがなければつまらない。なぜなら、SNSで自殺願望者を探してその手助けをする、という犯罪が実際にあり、ともすれば作品のアイデアに社会的倫理感を持ち込んでしまう可能性があると思うからだ。しかし、それは杞憂かもしれないが。依頼人の青年と殺し屋の老人のバタバタが面白い。生死、生活、社会など普遍的なテーマにも繋がる。徹底的なコメディの先に、真摯なテーマがある。それがいい。








2019年9月18日水曜日

9月の映画狂No.4


 ラスト・ムービースター

      監督:脚本 アダム・リフキン 2017年 アメリカ 

 バート・レイノルズはハリウッドスターだ。ハリウッドが似合うというよりハリウッドそのものと言ったほうがいいかもしれない。何が言いたいかというと、カンヌやベネチアと対局的な存在だということである。この作品の中で頻繁にクリント・イーストウッドと比べる場面があるが、スターのヴィッグ・エドワーズ(レイノルズ)は、作品の選択がいけなかった、と言う。ふたりはともに活動期を同じくした俳優であり、アクションを中心とした俳優だった。しかし、イーストウッドは徐々に作品の質にこだわるようになった。イーストウッドの評価はいまでは硬質で良質な作品を生み出す映画作家である。もちろん往年のアクションスターが、そのままレベルを保ちながら老年まで続けることはないだろう。しかし、この主人公エドワーズは晩年を迎えても、ジタバタジタバタしている。このジタバタ感がなんとも愛しいのだ。思えば、ほとんどの男たちはこのジタバタで老後を迎えているのではないだろうか。
 往年のアクションスターエドワーズ(バート・レイノルズ)は、ひとり豪邸で過ごしている。体も思うようにならず、愛犬と寄り添いながら生活していたのだが、その愛犬も老犬となり余命を全うする。喪失感におそわれるエドワーズだが、そこにファンの若者から映画祭への招待状が届く。彼は友人に説得されその映画祭に老体を引きずるようにしして参加するが、なんとその映画祭は場末の居酒屋で開催される若者たちのお祭り騒ぎだったのだ。憤懣遣る方無いエドワーズと若者たちのゴタゴタジタバタが、なんとも言えないユーモアに包まれ、優しい作品になっている。エドワースと若者たちはお互いに理解し合い、相互の信頼と尊敬が深まる。
 バート・レイノルズはなんともいい表情だ。人としていい年の取り方をして来たのかも知れない。昔は性欲男にしか見えなかったが、老年のレイノルズは悲哀がに滲み出ていていい。昨年2018年、82歳の人生を終えた。        



2019年9月12日木曜日

9月の映画狂No.3



ジョアン・ジルベルトを探して
原題:Where are you, João GILBERTO?

                                          監督:ジョルジュ・ガショ  2018 ドイツ・フランス・スイス
                 言語:ドイツ語・フランス語・ポルトガル語・英語

  ジョアン・ジルベルトとは何者か、ボサノバと言えば誰もが聴いたことがある音楽だと思うが、その伝説的存在がジルベルトである。1931年ブラジルに生まれ、2019の7月、つい最近亡くなった歌手である。カルロス・ジョビンなどとともに、ボサノバの創設者と言われる。彼は2008年以降、他との交渉を絶った。自室で昼夜逆転の生活をしていたとも、食事は常にドアの前に置かれて処理されていたとも、さまざまに伝説が流れる。まるで引き籠りのような生活だ。なぜ彼は姿を消したのか、その真相は誰も知らない。
 マーク・フィッシャーというドイツの作家・ジャーナリストがいた。40歳で自らの命を絶ったのだが、この男がジョアンを探していた。マークはブラジル中いや世界中ジョアンを探し続けた。もちろん、所在はわかるが、絶対に会うことを拒否し続けるジョアン。単純な発想でマークの精神を分析することはできないが、彼の文学や世界への対処の仕方は、実に内省的なものだったのではないだろうか、そう思えてならない。そのマークを中心軸にして、監督ジュルジュ・ガショはジョアンを探す旅を続ける。マークがたどった場所を忠実になぞりながら、ジョアンの謎を解き明かそうとしているのだが、じつはマークの存在そのものが浮き彫りにされてくる。
 





2019年9月7日土曜日

9月の映画狂No.2

  メランコリック

               脚本:監督 田中征爾    2018 日本

 プロデューサー兼主人公鍋岡和彦役:皆川暢二。殺し屋松本晃役:磯崎義知。監督:田中征爾の三人には共通点がある。それぞれ1988年89年の生まれであり、皆川はワーキングホリデーでカナダへ、田中はカリフォルニアの大学、磯崎はロンドンで演劇の修行。前向きの若い世代だ。
 この作品の面白さは、銭湯には夜の顔があるという発想だ。銭湯で人を処刑し、お湯を沸かす窯場で屍体の処理をするというなんとも合理的なことだ。なるほど、すべては銭湯で完結できて、危険性が極めて低い。そしてこれをユーモラスに扱う。ユーモラスに扱うためには余計な説明や、社会性を作品に持ち込まないことだ。もし、この設定で韓国での作品であったならば、真っ向から攻めて行く作品になるだろう。どちらがどうだ、ということではなく、この三人の映像作りの面白さということになるだろう。ただ作品として普遍的なものを追求する方向ではない。ところどころにウイットの利いたところもある。皆川と松本が飲みに行って、こんな話になる。皆川は東大を卒業しているのが、なんで一回も就職したことがなく、フリーターなんだ。と松本が詰め寄る。皆川は、なんで東大出たらいい会社に行っていい生活しなければならないんだ。逆に皆川が松本に詰め寄る。趣味があるのか、楽しいのか。それにたいして松本は言う、なんで楽しくなけりゃいけないんだ。なるほど、本来大学というところは、勉強したくて行くところであって、就職とかに有利になるということは関係ないはずであり、楽しく人生を送るために趣味は必要だというのもステレオタイプの考え方かもしれない。すべての人間が楽しい人生を送っているかどうかは、はなはだ疑わしい。ほとんどの国民は生活のため自分自身を犠牲にして生活しているのかもしれない。こんなことは当たり前といえば当たり前であり、あえて真正面から問われると、鼻白んでしまう。
 皆川に恋人ができたり、松本は謎が多かったり、その場その場の展開が巧妙である。ヤクザに脅されて店主が殺しの片棒を担いでることがすべての始まりであるが、なんだかすべてがあっけらかんとしている。爽快でもある。長編作品最初のチャレンジであるらしいのだが、面白い。映画史になんの貢献もしないが、なんとも面白く優れた作品である。
 銭湯の入り口の場面で、住所が猫実4丁目という文字が見える。千葉県浦安の猫実4丁目にある実際の「松の湯」がロケ地になっている。

2019年9月5日木曜日

9月の映画狂No.1


火口のふたり


                脚本監督:荒井晴彦        日本

 白石一文の同名小説の映画化、荒井晴彦は監督よりも脚本が多い。登場人物は柄本佑と滝内公美のふたりで他の人物はでてこない。これだけでもこの作品がどんなものであるのか想像できると思う。わたしはこの小説を読んだことがなく、今後読む予定もないので文学的に判断することは避けようと思う。ふたりの会話と性描写のみでこの映像作品は成立している。社会と個の関係を問いながら疑い、そして個としてそれを解釈する。彼女と彼はかつて恋人であったが、別れて数年が経つ。彼女はアルバイト生活をしていたが、自衛隊員と知り合い結婚が間近に迫っている。彼は結婚し子供がいるが、離婚していまはプータローだ。そんなふたりが、地元で再び会い性に溺れて行く。ふたりの生活環境は確かに社会との関係、あるいは社会が作り出している。人はみな社会的存在であるならば、その構図から逃れることはできない。しかし、その対にあることがSEXなのかもしれない。SEXは極めて限定的な空間でありながら、人間社会において普遍的なことである。こんなことを基軸として考えて行くと、さまざまに理屈付けが可能になってくる。それが存在論として妥当なこともあるが、たんなる屁理屈も出てくる。しかし、個人的にこの屁理屈をこねることが面白い。なぜならこの理屈は他に作用することもなく、わたし自身の思考の中で行われ完結するからである。そしてその先にわたし自身としての結論が導き出される。
 ふたりのSEXはときとして、限定区間から抜け出そうとする。ビルの隙間やバスの中だ。つまり公的空間である。これを単純にタブー視していいかどうか。おそらく議論の場があれば、「社会的に」ということを述べる人は多いと思う。そこには「社会的」という接頭語が必ずと言っていいほど付される。社会と個の関係、国家と存在の関係。このことをSEXをキーワードとして考える。世界には多様に性表現の文芸があるが、その重要性はあるのだ。しかし、これがいかに弾圧されてきたかということも歴史的な事実。
 しかし、ここまで述べてきて、ピンク映画とどう違うのだという考えも頭を持ち上げてくる。難しいのであるが、欲情を刺激するかどうか、それが第一義のテーマとしてあるかどうか、ということも考えられる。しかし、欲情を刺激されて何が悪いのかということもある。割り切ろうと思うからいけないのかもしれない。割り切れなさを抱えるということが文芸的なこと。




2019年8月28日水曜日

山本弘展(曽根原正好企画)



 2019年8月19日から25日まで、渋谷のアートギャラリー道玄坂で開催された「山本弘展」。23日、ユーロスペースで「アートのお値段」というアメリカのドキュメタリーを観て、その足で向かった。オークションで億単位の値がつくビッグスターたち
   の映像を観た後でもあったので、ことさら山本弘という画家の存在に感慨深いものがあった。


 痕跡がいい。きれいに塗り分けられた画面ではなく、何かを確かに描こうとしている。基本は速書きだろうが、その確かな痕跡は描いている画家の息遣いが感じられる。


 題名が『雪の三叉路』なるほどそう言われれば、上にある黒い形は電信柱だということが分かる。そして、それがキツカケで画面の中に黒い十字が登場するものは、全て風景画であると判断できる。左下にサインの弘の字が見えるが、この作者のサインは単なるサインの意味を超えて、画面の一部になり構成要素となっている。ところどころの黒と電信柱の黒とのバランスがきちんととられている。他の作品を見ても、その画面の色彩とサインが見事に調和がとれている。雪深い東北の街で育った私には、この画面がよくわかる。


 おもしろい、とてもおもしろい。人間の顔なのだろうか、それとも何か絶対的なものなのか。さまざまに見えてくる。そして見る者の経験値によって変化する。作者の心は計り知れないが、躊躇と決断、自由と抑圧、それぞれ背反するものがせめぎあっている。アンビバレンツではなく、それらがパラレルに持ち堪えられている。そうだ、これがこの人の本質なのかもしれない。






 人なのか、鳥なのか。私の好きな烏天狗にも見える。それなりに経験値を重ねると、どんなものでも何かに似ていると感じる。何かに似ている、でもそれは何かなのかよく分からない。しかし、分からない何かを知ろうとする。それでいいのだ、それこそがいいのだ。



 大胆な決断。憂苦懊悩の果てにたどり着いた大いなる決断とでも言えそうな描画。精神的な画面に感じる。たぶん画家自身はそんなことなど思っていないだろうが、私は画家の潜在意識の問題だろうと思う。





 なんという美しい画面だろう。この引っ掻いた線は、これ以外の方法はない。断固として必然性がある線。種子のようにも見えるが、これは想像、創造、生命、自然、あらゆるものの始まりと宇宙だ。




  『子供』たしかに子供に見える。題名がなくても子供に見える。なぜだろう。子供、この不確かに永遠なるもの。子供は子供であり続けることができない。社会的な価値もまだなく、ただそこにいる。意味づけから離れて、ただそこに存在していることができるのは子供だけなのかもしれない。子供のレーゾンデートルは、子供という存在そのもの。タブララサなのか。哲学的な命題にどんどんはまって行く。



 これもいい作品だ。見ようによってさまざまに見えてくる。

  挑むような視線を感じる。




 形を描こうとしているが、どんどん形から離れて行く。描こうとしているから、そこからどうしようもなく離れて行く。それは「自由」だ。最初から自由があったわけではなく、苦悩から得られたもの。

 黒十字が見えるので、これは風景か。手前の三角はひとびとが暮らす屋根と見える。向こうに聳えているのは山。筑豊のボタ山にも見えるが、この感覚も筑豊というのを知っているから出来る判断。

 作品をよく具象と抽象と分けるが、そのようなことになんの意味があるのだろうか。全ては具象であり、全ては抽象だ。形を追求すれば追求するほど形から飛び出してしまう。世界は混沌としている。そこになんらかの形を見つけようとする。
 
 画家にとって、描くということは生きることそのものであったと思う。描くことが自分を救い出してくれる。現在のアート(あえてアートという言葉をつかえば)状況はどうであろうか。現代美術も、商業化され売買される。みなが売れるアーティストを目指し、メセナ活動という美しい誘惑もある。おしゃべりが得意で、自己PRが長けていて、アート業界を渡って行く。それを一概に否定するつもりはないが、私が思う美術とはベクトルの方向は異なっている。私が山本弘という画家に惹かれる理由でもある。
 生前ヒロポン中毒であったらしいが、当時ヒロポンは安価に薬局で売られていた。坂口安吾や織田作之助も中毒だったし、太宰治はパピナールだった。折口信夫はコカインだった。そんなことはどうでもいい、そんなことでこの人の価値は微塵もゆるがない。
 
 山本弘は1930年6月15日の生まれ、妙なことに私は昭和30年6月15日の生まれ。なんの意味もないが・・・。

2019年8月26日月曜日

8月の映画狂No.6





『米軍が最も恐れた男カメジロー不屈の生涯』

              監督:佐古忠彦   2019日本

 前作は2年前で、今作はその続きである。監督はTBSの「NEWS23」で筑紫哲也が亡くなるまでの10年間活動したサブキャスターでアナウンサー佐古忠彦。現在は報道局のプロデューサーのようだ。
 沖縄の政治家、瀬長亀次郎。徹底的にアメリカと日本政府に抵抗し、民主主義精神を貫き通した人間。沖縄の戦後史が浮き彫りにされる。そしていかに差別され続けてきたか。権力は暴走する、でっち上げられた罪で幾度も収監される。それでも絶対に屈しない。亀次郎の言葉に「小異を捨てずに、大同につく」がある。人ぞれぞれに思いがあるが、それを捨ててはならず、それを大切にしながら、大きな目的を共有し進めていかなければならない、ということ。ナレーションに「オール沖縄につながる」とあるが、まさにその通りだ。民主主義に左翼右翼の別はない、基本的人権の問題であるのだ。



2019年8月11日日曜日

8月の映画狂No.3




  Carmine  Street  Guitars     

                                                                     監督:ロン・マン    カナダ2018

  ニューヨークのカーマインストリート。ここにギター工房がある。店主のリック・ケリーは全て手作りでテレキャスを作っている。エレキギターの代名詞テレキャス。リックはニューヨークのあちこちから廃材としてでる木材を使う。古いBARのアルコールが染み込んだ木材や、傷だらけのもの、虫に喰われたもの、それらを使い傷などをそのまま活かして作るカスタマイズギターだ。世界のロックシーンを裏で支える職人はじつに謙虚だ。この街場の工房に、さまざまなトップミュージシャンが訪れる。家では騒音問題になるのでここで引かせて欲しい。ギターの調子が悪いので見てくれ。いいテレキャスを探している。そして誰もがリックのギターに惚れ惚れする。
 パティ・スミス バンドのギター レニー・ケイ、ボブ・ディラン バンドのチャーリー・セクストン、などなど気楽にやってくる。日常がエキサイティングだとも言えるし、彼らのごく普通の日常だとも言える。リックはいつも穏やかに彼ら彼女らと接する。ギターの古い傷は、人間の顔に刻まれたシワと同じで人生を語っているとポツリと言う。そして、絶滅寸前の木を使った楽器がもう作れないのは、農薬で害虫が強くなりすぎて木がダメになったのだともつぶやく。そのつぶやきが重く深い。この店は彼の母親ドロシーが事務を担当し、弟子の女の子シンディがひとり。カーマイン・ストリートがあるこの街は、いま建物の持ち主が家賃を吊り上げることができる法律がいくつもあるという。それで、古くから店をだしている人が合法的に追い出されるようになった。再開発が進んでいる。そんなこともうかがわせる場面もあった。「隣のビルが売り出されている。昔ジャクソン・ポロックが住んでいたところよ」とシンディが話したり、不動産屋に勤める青年がふらっと入ってきたり。ゆったりと時間が流れる場所。昔ここグリニッジビレッジ地区にはボヘミヤンが集っていた。詩人で活動家ギンズバーグや小説家バロウズ、そしてヒッピー。たくさんのビートニクジェネレーション。静かな感動が心に広がった。











2019年2月3日日曜日

2019年1月2日水曜日

2019年1月2月金星と月




 金星と月の接近。地球も宇宙のなかの一部。遥かな宇宙には視点があるのだろうか、子供の頃からそんなことを考えては眠れない夜を過ごしていた。我々の愚行はいったいいつまで続くのだろう。『百年の愚行』という写真集が手元にある。改めてパラパラ捲ってみる。誰かが何かをしてくれるのではなく、我々ひとりひとりの問題のような気がしてならない。

2019年1月1日火曜日

世界で一番ゴッホを描いた男


 『世界で一番ゴッホえを描いた男』
                 監督:ユイ・ハイボー、キキ・テェンチー・ユイ
                 2016年  中国/オランダ




 10月に上映だったが、見のがしていた作品。吉祥寺の「ココマルシアター」で上映というので、出かけた。いままでの予告編でだいたいイメージはできていたのだが、やはり実際に見なければわからないことが多々有る。さまざまな社会的問題が浮き彫りにされた作品だった。そして、ところどころ涙を禁じ得ない作品でもあった。それにしても何も知らないことに気づかされた。「複製画」とはなにか。このことすらもよくわかっていなかった。いままで知る機会も必要性もなかったのだ。
 「オリジナル複製画」本作品にこの言葉が頻繁に出てくるが、贋作ではない。贋作は犯罪である。写真でもなく、写真を使った複製画でもない。油絵の具を使って、実物の複製を製作するのだ。複製だからもちろん本物ではない。しかし、模写でもない。模写は実際の作品を手本にして、画家が技術習得のために行うエチュードであるので、これは商売ではない。名画の複製を手書きで、大量生産し、商品として流通させる。つまりそれぞれは一点物だということになる。商品として商売として成り立つので、この業界があるのだ。
 深圳市というところに、複製画を専門とする工房が軒を競っている。深圳市とはどんなところだろうか、たしかにかつて中国政府が方向転換するなかで、経済特区深圳という言葉をニュース等で耳にしたことがある。調べてみると、いま中国経済の需要な地点として脚光を浴びている。IT業界等々で深圳が急成長している。巨大企業Huawei(ハーウェイ)もここにある。早晩上海を追い抜くだろうとまで言われている。主人公の超小勇は、ここで複製画を作成している。深圳市の大芬は油画村とまで言われ、世界市場6割だという。工房に寝泊まりする職人たちはみな床にごろ寝であり、エアコンなどがない。ここだけをみると貧しい中国という印象を受けてしまうのだが、ちょっと街にでると、巨大なビルが並び、スケールがばかでかい。富をほしいままにしている人々と消費を享受している人々と隣り合わせに、この職人たちが生活している。そんな多重構造が透けて見える。
 超小勇は田舎から出てきて20年、この地で複製画を描くことによって生計を立てている。とにかく時間をかけず名画の複製を完成させること。これが職人としての絶対的な条件のようだ。そして彼の描く作品はゴッホである。来る日も来る日もゴッホの複製を描き続ける日々であった。そして何より彼はゴッホを尊敬してやまない。いつの日にかゴッホの本当の作品を見たいという思いが募ってゆく。
 彼には娘がいる。その子は高校で学んでいるが、深圳にある高校ではない。深圳の高校には進学する資格がないのだ。深圳に進学できる子は都市戸籍を持っている子しか許されない。超小勇は地方の出身である。つまり、農村戸籍の人間であり、家族も同様である。農村戸籍の子は都市の学校には行けず、地方の学校に進学するしかない。娘は嘆く、地方の言葉がわからないから、授業についていくことができない。このままでは大学にはゆくことができない。生活者の実情が見えてくる。
 そんなこんなで、超小勇は仲間数人とオランダへ行く。妻に旅費の心配をされるが、情熱が突き動かされる。彼はここで否応無く現実を突きつけられ、苦悩する。まずはゴッホの凄さを知り、自分のいままでの仕事を完全否定されたように感じる。また、自分が描いた複製画が10倍近くの値段で取引され、それもお土産屋で販売されていた。彼は、そこそこ高級な画廊で扱われていると思っていたのだ。

 職人超小勇は真摯で真面目な人物である。それが故悩み苦しむ。彼は職人であるのだが、表現者としての気持ちもある。現代中国の社会情勢や、システムがこの作品で剥き出しにされている。苦しむのは生活者である。矛盾を感じ憤るが、彼はひとつの小さな目標を見つける。表現者の根元の部分に気づくのだった。