2022年8月4日木曜日
ミャンマー当局に拘束された映像作家久保田徹さんの即時解放を求め、 国軍による市民への弾圧に抗議する緊急声明
2021年10月1日金曜日
さいとうたかを訃報に触れる各紙のコラム
劇画家「さいとうたかを」が亡くなった。10月1日各紙のコラムがそのことに触れている。7社を確認したのだが、それぞれどんな紹介をしていたのか興味が湧いた。
小社会:高知新聞 2021年10月1日
劇画の時代 <BR> <BR> 昔から通っている高知市内の理髪店には、店の隅っこに本棚がある。背表紙を眺めると、あのおなじみのタイトルがまず目に飛び込んでくる。近所の中華料理屋さんに行っても同じシリーズの本が数十冊ずらりと並んでいる。 <BR> 超一流の腕を持つスナイパー(狙撃手)デューク東郷が、国際社会の裏側で活躍する漫画本「ゴルゴ13」。作者、さいとう・たかをさんの訃報に接した。 <BR> 今年7月にも、「最も発行巻数が多い単一漫画シリーズ」として、ギネス世界記録に認定されたばかり。ゴルゴは要人暗殺を請け負う暗い世界のヒーローだ。なぜ半世紀以上も愛され続けているのだろうか。 <BR> さいとうさんのゴルゴがデビューした1968年ごろは、既に先行していた少年漫画誌の読者が、青年・成年期に差し掛かっていた。漫画は「子どもが読むもの」から、大人の鑑賞に堪える文化へ脱皮する時期だった。 <BR> 「漫画で育った人たちは、大人になっても必ず漫画を読んでくれる。確信があった」とさいとうさんは語っている。時代の波に乗ったという前に、本人に時代をみる目があったのだろう。こうして劇画の時代は開かれた。 <BR> ゴルゴのタフで無口な外見は、俳優の高倉健さんからイメージを膨らませたとは作者の弁だ。ならば、ただ強いだけではなく、胸に秘める人間味もあろう。漫画誌連載はスタッフが継承するという。たぐいまれなキャラクターの今後を見守りたい。 <BR>
エッセイのような書き出しで、筆者の身の回りからはじめる。「ヒーロー」と言われると、どこか抵抗感があるが、現代史そのものを扱っているのが、魅力のひとつだと思う。高倉健のイメージだから「胸に秘める人間味・・」とあるが、「人間味」があったとしても、それが需要な展開となっているわけではない。基本は非情な狙撃者なのだ。筆者は何を言いたかったのだろうか。
北斗星:秋田魁新報 2021年10月1日
学生時代、下宿近くの定食屋に「しょうが焼き」と「にんにく焼き」があった。ともに豚肉を使ったメニューで、よく食べたのは値段が安い「にんにく」の方。ある日、少し味が違っていた。会計はいつもと同じ。店主から「しょうが焼きもうまいだろう」と声を掛けられた。 <BR> 漫画家さいとう・たかをさんの訃報に触れて、40年も前に定食屋で受けたサービスを思い起こした。店には雑誌や漫画本が置かれ、その中にあったのが「ゴルゴ13」シリーズ。1冊を読み切ってから席を立つのが常だった。 <BR> 謎に包まれた超人的スナイパー(狙撃手)が世界を飛び回る姿は、アクション映画を見るのにも似た迫力があった。東西冷戦をはじめ、変化する国際情勢をリアルに描いて人気を集めてきた。 <BR> 連載開始から半世紀余り。最新刊は202巻と世界最多の発行巻数を誇る。さいとうさんは分業制による漫画制作を提唱し、早くからプロダクションを設立。そのおかげもあって今後も連載が継続される。 <BR> 漫画好きで知られる麻生太郎財務相も愛読者。小泉内閣の総務相時代には大臣室に主人公の等身大イラストを飾ったとか。大臣が漫画で国際情勢を勉強するのでは少々心もとないが、幅広い読者層を示す逸話だろう。 <BR> さいとうさんの漫画の全原画約11万点は、横手市増田まんが美術館に所蔵されている。同館所蔵の原画約40万点に対し、突出した点数といえる。いずれ追悼展が開かれる機会があればぜひとも見に行きたいものだ。 <BR>
高知新聞と同じように、このコラムもエッセイ風にはじまる。しかし私は「しょうが焼き」と「にんにく焼き」とどっちが美味しいのか興味がある。店主は貧乏学生に奮発してしょうが焼きをだしたのだろうか。私が店主なら、「金はいらねえから食ってけ」と言うだろう。このコラムだとそのことが気になって仕方がない。あとは、まあウンチク。麻生太郎に言及しているところは気に入らない。どちらかというと、麻生はゴルゴによって狙撃される立場だろう。
余録:毎日新聞 2021年10月1日
中学時代、ワルを気取って試験の解答用紙を白紙で出した。「白紙は自由だが、名前だけは書きなさい。それが人間の責任だ」と諭してくれたのが東郷先生だった。その名を代表作に使った。暗殺を請け負うすご腕スナイパー「ゴルゴ13」の別名、デューク東郷である。 <BR> 84歳で亡くなった漫画家、さいとう・たかをさんのエピソード。「人間社会が約束事で成り立っていると気づかされた」と振り返っている。中学卒業後、理髪師をしながら貸本屋向け漫画家としてデビューし、「劇画」の草分け的存在になった。 <BR> 手塚治虫氏や石ノ森章太郎氏を感性で作品を生み出す「天才」と呼ぶ一方、「職人」を自称し、分業システムを取り入れた。現実の世界情勢を背景にした「ゴルゴ13」にその利点が生かされた。 <BR> 小説家や銀行マンを起用した脚本作り。精緻な武器や背景描写担当のスタッフ。専門家もうならせるリアリティーが半世紀を超える長期連載につながった。大銀行の合併劇を現実に先駆けて作品化し、頭取も読んだといわれた。 <BR> 外務省は岸田文雄外相時代、在外邦人の安全対策マニュアルに「ゴルゴ13」を起用した。河野太郎前外相は動画版の声優を務めた。麻生太郎財務相も熱心なファンの一人だ。 <BR> 単行本は200巻を超えてギネス世界記録更新中。本人もいつ終わるか1人では決められないと語っていた。連載継続が可能なのは分業制ゆえか。大変革の時代。日本マンガ隆盛の礎を築いた巨星亡き後も現実の先を行く作品を読みたい。
麻生太郎・岸田文雄・河野太郎などの政治家に言及する。総裁選と絡めているのか?冒頭部分は、麻生太郎がいいきになって若い記者たちにウンチクを垂れていた内容。毎日新聞ともあろうものが、何をか言わんや、という感じが否めなかった。
正平調:神戸新聞 2021年10月1日
せりふに「……」が多い。愛読者のみなさんにはおなじみだろう。漫画「ゴルゴ13」に登場する殺し屋、デューク東郷は極端に口数が少なく、めったに感情を表さない。「……」である。 <BR> 考えてみれば、殺し屋の「……」ほど恐ろしいものはないが、その胸の内は読者の自由な解釈に委ねられる。推理したファンからの手紙を読むのが、作者であるさいとう・たかをさんの楽しみでもあったそうだ。 <BR> 生みの親が世を去ったとの知らせを、デューク東郷はどこで聞いたか。いつものように表情を変えず、無言の「……」を貫きながら、きっと心の中では泣いているに違いない。84歳。さいとうさんが亡くなった。 <BR> 中学生のころ、雑誌に投稿した漫画が「子どもらしくない」と酷評された。「今に見ていろ」。その大人っぽい作風と完成度の高いストーリーで、漫画界に「劇画」という新ジャンルを確立した不屈の人である。 <BR> 今年7月、「ゴルゴ13」の単行本が単一漫画としてはギネス記録となる201巻を数え、ファンともども喜んでからまだ間がない。寂しさは募るが、故人の遺志を継いだ制作スタッフによって連載は続くという。 <BR> 「用件を聞こうか」。依頼人の無駄口を遮る名せりふは今後も健在だろう。ゴルゴ13は、不死身でござる。
「・・・」に注目している。他に「山形新聞」もそのことに触れている。饒舌な殺し屋はクールではないと思うので、総じて皆寡黙であろう。「仕置人」だって、アランドロンの「サムライ」だって口数がすくない人物だった。作者が亡くなり、「デューク東郷」が「心の中では泣いている」というのは、個人的な感傷すぎる。「不死身でござる」という言葉で締めるのは、筆者はさいとうたかをの真のファンではないからだろう。
談話室:山形新聞 2021年10月1日
台詞(せりふ)で沈黙を表す「…」がこれほど多用され、かつ似合う主人公もいまい。人気漫画「ゴルゴ13」のデューク東郷である。切れ長の目に鋭い光を宿す超一流の狙撃手(スナイパー)は余計な言葉は発せず仕事をこなす。 <BR> ギネス世界記録に認定されるほどの長寿作品だが、当初は今より口数が多かった。自分の感情をつぶやいたり、他人に意見したり。次第に無口になっていったのは「できるだけ距離を置いて描くよう気をつけた」ためだったと作者さいとう・たかをさんが自伝に書いている。 <BR> わが子同然の主人公を世間に受け入れられるように育てるには、溺愛してはいけない。突き放し、冷静に描かないと物語が行き詰まる。そんな自戒が、人としての弱さや複雑さなども持ち合わせた寡黙な主人公の内面に読者を引き込むことに成功したと言えるかもしれない。 <BR> さいとうさんが亡くなった。漫画家ちばてつやさんは「こわもてで気難しそうだが、誰よりも周りを思いやる、優しい紳士だった」と偲(しの)んだ。自伝には負の側面を持つヒーローを描く作者像を守るため自分を演じているとあった。妥協を許さぬプロの仕事ぶりを改めて思う。
主人公が我が子とか、作者が生みの親とかの表現は好きではない。作者の業績の凄さを語ってほしい。
卓上四季:北海道新聞 2021年10月1日
アウトローの理由 <BR> <BR> 素行不良な悪ガキのくせに理屈っぽい。大人にとっては扱いにくい子どもだった。体罰を受けた同級生がいれば、「悪いことだと分からせるのが教師だろう」とくってかかった。漫画家さいとう・たかをさんである。 <BR> 敗戦で価値観がひっくり返った少年時代。善悪すら、その時代の都合なのではないかと疑問を感じた。「その時代でしか通用しない善人は描けない」。登場人物にアウトローが多いのも得心がいく。 <BR> 隻眼の浪人、無用ノ介は剣はしょせん殺人の道具と言い、孤高のスナイパー、デューク東郷は足元のアリに気を配る。ささいなセリフやしぐさににじむ葛藤や逡巡(しゅんじゅん)。代表作「ゴルゴ13」が半世紀以上続くのも、そんな普遍性を求める思いがあるからだろう。 <BR> 家業の理容店を継ぎながら貸本漫画でデビューしたが作風が定まらない。そんな時、先輩漫画家の工藤一郎さんが「さいとうは漫画を描くために生まれてきたような男だ」と声をかけてくれた。 <BR> 大人も読める漫画を目指すさいとうさんの努力を見ていたのだ。「そんな見方もあるかと開き直れた」。劇画という分野を確立した道程には先達の導きもあった(「劇・男」リイド社)。 <BR> 晩年は漫画の隆盛を喜ぶ一方で、若手の勉強不足を気にかけていた。身辺雑記や安易な世界観では成長もないということであろう。未熟な者に、〝いつか〟は、決して訪れない。ゴルゴ13の言葉である。 <BR> <BR>
さいとうたかをの価値観について述べている部分がいい。
「敗戦で価値観がひっくり返った少年時代。善悪すら、その時代の都合なのではないかと疑問を感じた。「その時代でしか通用しない善人は描けない」。登場人物にアウトローが多いのも得心がいく。」
善とは何か、悪とは何か、すべては相対性の中に投げ出されている。そして「無用ノ介」について説明するところなどは、さいとうたかをの劇画通かと思える。「身辺雑記」や「安易な世界観」と言い放つ、筆者は何を考えているのだろうか興味がわく。文学の世界でもこれは言えるのではないだろうか。
もう1紙東京新聞もこのことについてのコラムだったが、ネットの「縦書きコラム」に掲載されなくなったので、ここで紹介できない(めんどう)。ただ、東京新聞はわたしが購読している新聞なので内容は読むことができた。東京新聞のそれは、さいとうたかをが挫折のなかでいかに頑張ったか、というちょっと教育的な内容で紹介していたので、私の好みではなかった。
さいとうたかをは、ボーイズライフの007の連載で知った。その雑誌では佐藤まさあきの「Zと呼ばれる男」も連載していた。さいとうと佐藤は同年代、さいとうたかをがひとつ年上。「007」「0011ナポレオンソロ」「無用ノ介」「捜し屋はげ鷹」などたくさんの作品があった。
2021年1月23日土曜日
ギリヤークさん
2020年11月3日火曜日
「谷津書庫」とは何か
2020年9月6日日曜日
Kさんからの残雪
残雪の『カッコウが鳴くあの一瞬』をKさんからいただいた。残雪(鄧小華)は中国現代作家である。表題を含む九つの短編集であるが、読む進めていると個人的には特段違和感を感じなかったものの、一般的に多数の読者を獲得する作家とは思えなかった。物語で読ませるものではなく、娯楽性があるわけでもない。ただ特定の読者にとっては、この作品の意味するところが痛切に理解することができるのかもしれない。そうでなければこれほどアバンギャルドに書き続けることはできないはずだ。そして、見逃してはならないことは作者の深層に深い闇が抱え込まれているかもしれないということだ。
私には、物語の範疇でこの作品を捉えることができない。ではどう捉えるのかというと、『詩』という言葉がうかびあがってくる。それは「物語を拒絶した叙事詩」ということだ。設定はたしかにあるが、ストーリーではなく、場面が唐突に出現する。例えば、スライド写真を映している感覚だ。プロジェクターがカシャリカシャリと定まった時間を刻みながら静止画像を映し出してゆく。現在のテクノロジーならば、静止画像であれ耳障りのいい音響とともに、フェイドイン等々ストレスを感じさせないデザイン性豊富な方法がいくらでも可能だ。しかし、私の感覚では残雪の小説は、そのようなテクノロジーよりも身体感覚に近いスライド写真なのだ。その感覚が心地よい。リバーサルフィルムが時を刻み、送られて行き、全てはフラットで等価なものとして目の前に並べられてしまうことにより、重苦しい場面は不思議に浄化される。この恐ろしいほどの企ては、作者自身としても、微塵も考えていないだろう。
語は文節を作り、文となり、段落を形成して、まとまりのある情報を伝える装置になる。しかし、そんなことにこだわらないところに詩そのものの存在がある。おそらくこの作品は、そのような意味や情報の定石にこだわらないで読んだ方がいい。
気になったところをあげてみたい。
「隣人はむこうの高塀の下で、あの穴を火かき棒でつついている。」
(『阿梅、ある太陽の日の愁い』)
「彼らが外でわめきちらしながら、ガラスをつぎつぎに割りまくっている音が聞
こえる。」 (『霧』)
「彼が大きなハンマーをふりかざし、その鏡に打ちかかっていくのが見えた。」
(『雄牛』)
「肺気腫にかかった者はみな、夜中によその家の戸をたたきたがるんだよ。」
(『カッコウが鳴くあの一瞬』)
「ガラス板の上の文鎮が壊された」
(『曠野のなか』)
「髪ふりみだして飛びこんできて、わたしの寝室をところかまわずひっかき
まわし、鏡や湯のみをたたき壊してしまう。」
(『刺繍靴および袁四ばあさんの苦悩』)
「ある人がある場所をひとりぼっちでさまよい、両手に握った小石を粉微塵に砕
いているのが。」
(『天国の対話』)
「深夜の寒風がひゅうひゅう吹くとき、ある扉を力いっぱいたたくと、」
(『素性の知れないふたり』)
「わたしは鶴橋を探してめちゃめちゃに振りおろし」
(『毒蛇を飼う者』)
これらのことが、とりたてて意味があるのかどうかは分からない。しかし、なぜか気になっている。残雪という現代作家を読んだのもはじめてであり、親和的読者でもないので、早急で無責任なことを言えないが、なにかありそうな気がしてならない。
2020年4月29日水曜日
蔓延しているのは新コロナウイルスだけではない。
2020年4月13日月曜日
2020年1月1日水曜日
コンテンポラリーダンスというもの
勅使川原三郎・佐藤利穂子
ダンス公演
『忘れっぽい天使
ポール・クレーの手』
最初に勅使川原というダンサーを知ったのは、勅使川原がまだ髪を剃っていないとき、宮田圭がいたころだ。ダンス以前に舞踏という表現に興味を持っていたが、その流れでコンテンポラリーダンスについて知るようになった。ある放送局の公演記録が放送されていたことがあった。それは日夏耿之介の『夜の思想』という作品を元に創作したダンスだったと記憶している。88年のことだったようだ。転んだり立ち上がったり転んだり立ち上がったりするダンスだった。わたしにとってダンスという表現よりも、山海塾と大野一雄の踊りから身体表現というものに興味があった。つまり暗黒舞踏だ。土方巽の著作や、記録からballetというものから離れた、もうひとつの身体表現であった。それは西欧の芸術表現ではなく、アジアの土着的でそれぞれの民族の日常を元にした踊りの根源に向かうものだった。
勅使川原の表現は、わたしの暗黒趣味と平行して理解してきたものであった。それにしても、そのモダンな様式は、洗練されたアートのひとつであった。最近の舞台は、シンプルであり、照明もそれほど斬新なものではない。以前は、といってもだいぶ前になるが、山口小夜子が参加していたときには、背中に鉄板を仕込んで電動ヤスリで火花を散らすなどの趣向があり、「物語る」部分も多くあった。またサックスとの共演や、ガラス片が敷き詰められたステージだったりしたこともあった。最近は、勅使川原と佐藤のふたりの舞台が多いように思われる。そして余計なものはできるだけ削ぎ落としているようにも思える。しぜんと身体の動きが闇から浮き上がってくる。
身体表現にはさまざまなものがあるが、ダンスという範疇に属すものは踊り手の持つ関節の可動域を駆使した組み合わせによる積分であり、それが表現になって行く。balletのように、物語る対象がある場合には、忠実に法則を厳守することが最低条件となるだろう。しかしどのようなダンスであっても、個の鍛えられた関節の可動域であっても、おのずから肉体という限界からとき離れることはない。近年の勅使川原のダンスは、物語ることよりも、身体の特性と限界からどのように解放されるか、ということに向かっているような気がする。もちろんフィジカルな側面ではそのようなことはありえない。それぞれの踊り手によってその個性的なものが表出してくると思うが、その個性というものも先に触れた身体的な限界がある。その領域の中での積分だとは思うが、そのことにどのような意識で向かうかということがひとつの視点を示すことになる。最近の勅使川原のダンスに、解放と限界、限界と解放のあくなき作業を感じているのだが、もちろんこれは勝手な見方であることは承知のうえ。しかし、わたしの勝手な思考がどこかで自分自身の問題を解くことのkeyになると信じている。
2019年9月23日月曜日
9月の映画狂No.9
人生をしまう時間(とき)
9月の映画狂No.8
人間失格
9月の映画狂No.7
今さら言えない小さな秘密
楽しい作品。ジャン=ジャック・サンペ(作家・イラストレーター・漫画家)の絵本が原作。脚本は『アメリ』のギヨーム・ローランが関わっている。楽しい作品ではあるが、楽しいだけではなく、少し切ない。しかし主人公ラウルにとっては少しどころか、人生最大の苦痛なのだ。個人にとっては最大級の問題だが、他にとってはなんということもない小さなこと、そこがユーモアの源泉なのかもしれない。20代後半のころギリシャ美術史家の故前田正明先生から話を伺ったことがある「一般庶民の悲劇はコメディであり、王侯貴族の悲劇がトラジディだ」と。90分のなかで、ほんの一言であったが未だに忘れることができない話だった。この作品を観たときそのことが思い起こされた。
南フランスのとある村、ラウル・タビュラン(ブノワ・ボールヴェールド)は評判のいい自転屋さんだ。あっという間に不具合を直し、村人は自転車のことをタビュランと呼ぶようになった。美しい妻(スザンヌ・クレマン)と、ふたりの子供に恵まれ、穏やかな村の人々に囲まれた温和なおじさん。しかし彼は自転車に乗れなかったのだ。これが彼にとって生涯守るべき秘密だったのだ。誰も知らない真実。何かに理由をつけて自転車に乗らないようにしていたのだが、有名な写真家が村に現れ、彼を取材したいと言い出した。この窮地をどうしたら逃れることができるのか、策略が空回りし続ける。
私などは、自転車に乗れないぐらいなんでもなかろう、と思うのだったが。作者サンペは幼少の頃から、貧しい生活を支えるための道具として自転車は必需のものだった。しかし思えば、洋の東西を問わず、昔の自転車は仕事で使うものだった。古いイタリア映画でも粗末な自転車はよく出てくる。中国映画にだって出てくる。しかし現在はピチピチのサイクルジャージに身を包み、高級なロードレーサーをかっ飛ばしている中高年のなんと多いことか。フランスはましてトゥール・ド・フランスの聖地ではあるまいか。フランス人は自転車に特別な思い入れがあるのだろうか。余計な方向にずれてしまったが、小さな秘密が劣等感となることは多いが、誰もがそんなことを抱えているのではないか、いっそ言ってみたら心が軽くなり、みんながほっとするのかもしれない。
面白く楽しい作品のなかに、とても大切なことがこっそり隠されているような、良質の作品であった。
ひとこと、邦題がまたまた客よせ意識。「ラウル・タビュラン」という個人名がいいのだ。これは個人の問題が複数の他、つまり世間と言い換えてもいいかもしれないが、その評価の意味を考えさせられていると思うのだ。
2019年9月22日日曜日
9月の映画狂No.6
プライベート・ウォー
9月の映画狂No.5
やつぱり契約破棄していいですか!?
このような物語は、ユーモアがなければつまらない。なぜなら、SNSで自殺願望者を探してその手助けをする、という犯罪が実際にあり、ともすれば作品のアイデアに社会的倫理感を持ち込んでしまう可能性があると思うからだ。しかし、それは杞憂かもしれないが。依頼人の青年と殺し屋の老人のバタバタが面白い。生死、生活、社会など普遍的なテーマにも繋がる。徹底的なコメディの先に、真摯なテーマがある。それがいい。
2019年9月18日水曜日
9月の映画狂No.4
ラスト・ムービースター
2019年9月12日木曜日
9月の映画狂No.3
2019年9月7日土曜日
9月の映画狂No.2
メランコリック
プロデューサー兼主人公鍋岡和彦役:皆川暢二。殺し屋松本晃役:磯崎義知。監督:田中征爾の三人には共通点がある。それぞれ1988年89年の生まれであり、皆川はワーキングホリデーでカナダへ、田中はカリフォルニアの大学、磯崎はロンドンで演劇の修行。前向きの若い世代だ。
この作品の面白さは、銭湯には夜の顔があるという発想だ。銭湯で人を処刑し、お湯を沸かす窯場で屍体の処理をするというなんとも合理的なことだ。なるほど、すべては銭湯で完結できて、危険性が極めて低い。そしてこれをユーモラスに扱う。ユーモラスに扱うためには余計な説明や、社会性を作品に持ち込まないことだ。もし、この設定で韓国での作品であったならば、真っ向から攻めて行く作品になるだろう。どちらがどうだ、ということではなく、この三人の映像作りの面白さということになるだろう。ただ作品として普遍的なものを追求する方向ではない。ところどころにウイットの利いたところもある。皆川と松本が飲みに行って、こんな話になる。皆川は東大を卒業しているのが、なんで一回も就職したことがなく、フリーターなんだ。と松本が詰め寄る。皆川は、なんで東大出たらいい会社に行っていい生活しなければならないんだ。逆に皆川が松本に詰め寄る。趣味があるのか、楽しいのか。それにたいして松本は言う、なんで楽しくなけりゃいけないんだ。なるほど、本来大学というところは、勉強したくて行くところであって、就職とかに有利になるということは関係ないはずであり、楽しく人生を送るために趣味は必要だというのもステレオタイプの考え方かもしれない。すべての人間が楽しい人生を送っているかどうかは、はなはだ疑わしい。ほとんどの国民は生活のため自分自身を犠牲にして生活しているのかもしれない。こんなことは当たり前といえば当たり前であり、あえて真正面から問われると、鼻白んでしまう。
皆川に恋人ができたり、松本は謎が多かったり、その場その場の展開が巧妙である。ヤクザに脅されて店主が殺しの片棒を担いでることがすべての始まりであるが、なんだかすべてがあっけらかんとしている。爽快でもある。長編作品最初のチャレンジであるらしいのだが、面白い。映画史になんの貢献もしないが、なんとも面白く優れた作品である。
銭湯の入り口の場面で、住所が猫実4丁目という文字が見える。千葉県浦安の猫実4丁目にある実際の「松の湯」がロケ地になっている。
2019年9月5日木曜日
9月の映画狂No.1
火口のふたり
2019年8月28日水曜日
山本弘展(曽根原正好企画)
題名が『雪の三叉路』なるほどそう言われれば、上にある黒い形は電信柱だということが分かる。そして、それがキツカケで画面の中に黒い十字が登場するものは、全て風景画であると判断できる。左下にサインの弘の字が見えるが、この作者のサインは単なるサインの意味を超えて、画面の一部になり構成要素となっている。ところどころの黒と電信柱の黒とのバランスがきちんととられている。他の作品を見ても、その画面の色彩とサインが見事に調和がとれている。雪深い東北の街で育った私には、この画面がよくわかる。
おもしろい、とてもおもしろい。人間の顔なのだろうか、それとも何か絶対的なものなのか。さまざまに見えてくる。そして見る者の経験値によって変化する。作者の心は計り知れないが、躊躇と決断、自由と抑圧、それぞれ背反するものがせめぎあっている。アンビバレンツではなく、それらがパラレルに持ち堪えられている。そうだ、これがこの人の本質なのかもしれない。
人なのか、鳥なのか。私の好きな烏天狗にも見える。それなりに経験値を重ねると、どんなものでも何かに似ていると感じる。何かに似ている、でもそれは何かなのかよく分からない。しかし、分からない何かを知ろうとする。それでいいのだ、それこそがいいのだ。
大胆な決断。憂苦懊悩の果てにたどり着いた大いなる決断とでも言えそうな描画。精神的な画面に感じる。たぶん画家自身はそんなことなど思っていないだろうが、私は画家の潜在意識の問題だろうと思う。
これもいい作品だ。見ようによってさまざまに見えてくる。
挑むような視線を感じる。
形を描こうとしているが、どんどん形から離れて行く。描こうとしているから、そこからどうしようもなく離れて行く。それは「自由」だ。最初から自由があったわけではなく、苦悩から得られたもの。
黒十字が見えるので、これは風景か。手前の三角はひとびとが暮らす屋根と見える。向こうに聳えているのは山。筑豊のボタ山にも見えるが、この感覚も筑豊というのを知っているから出来る判断。
作品をよく具象と抽象と分けるが、そのようなことになんの意味があるのだろうか。全ては具象であり、全ては抽象だ。形を追求すれば追求するほど形から飛び出してしまう。世界は混沌としている。そこになんらかの形を見つけようとする。
画家にとって、描くということは生きることそのものであったと思う。描くことが自分を救い出してくれる。現在のアート(あえてアートという言葉をつかえば)状況はどうであろうか。現代美術も、商業化され売買される。みなが売れるアーティストを目指し、メセナ活動という美しい誘惑もある。おしゃべりが得意で、自己PRが長けていて、アート業界を渡って行く。それを一概に否定するつもりはないが、私が思う美術とはベクトルの方向は異なっている。私が山本弘という画家に惹かれる理由でもある。
生前ヒロポン中毒であったらしいが、当時ヒロポンは安価に薬局で売られていた。坂口安吾や織田作之助も中毒だったし、太宰治はパピナールだった。折口信夫はコカインだった。そんなことはどうでもいい、そんなことでこの人の価値は微塵もゆるがない。
山本弘は1930年6月15日の生まれ、妙なことに私は昭和30年6月15日の生まれ。なんの意味もないが・・・。



























