2022年8月4日木曜日

ミャンマー当局に拘束された映像作家久保田徹さんの即時解放を求め、 国軍による市民への弾圧に抗議する緊急声明

 私たちは、オリンピックの開催に反対する「オリンピック終息宣言展」のアーティスト一同である。  この度、私たちとともに展覧会に参加した映像作家・久保田徹さんが、7月30日にミャンマー・ ヤンゴンにて、軍政に対する短時間の抗議デモ「フラッシュモブ」を撮影中に、ミャンマー当局に拘 束されたという報を受け、ここに声明を発表する。  久保田さんは海外で起きている出来事と日本を結びつけ、それを掘り下げて伝えることのできる、 優れた映像作家である。とりわけ、苦しむ人たちの声に耳を傾け、社会の矛盾や欺瞞を鋭く追及し、 いま、私たちが何をするべきかを示唆する深い洞察力と表現力は、秀逸である。  久保田さんは学生時代からミャンマーを訪問取材しており、短編ドキュメンタリー「ライトアップ ロヒンギャ」などを発表していた。また直近には「平和の祭典」と称する東京オリンピックの準備が 進められる中で、治安対策の名の下に何人もの命を奪った入管の長期収容の問題をテーマにした「祈 りの再現」や、五輪の裏で排除されていく野宿者の姿を記録した「The hidden sight of Tokyo's homeless」などの作品がある。また昨年、難民申請者の強制送還を可能にする政府の入管法改正案が 提出された際には、市民や難民申請者の懸念する声を記録した映像などを発表し、大きな社会の動き に翻弄され、虐げられる人々の声を伝え続けている。  日本社会は、これまで紛争地で拘束されたおおくのジャーナリストやボランティアに対して「自己 責任」という不当な批判を浴びせ、政府による救援の努力も極めて不十分だった。それどころか、拘 束された人物の政治的スタンスによっては、無視を決め込んできた。これが大変な間違いであること を、われわれは指摘したい。 世界はさまざまな強権的な勢力によって分断されている。今、まさに久保田さんのような人が、危 険をかえりみずに私たちの眼や耳となって「知る権利」を保障する役割を担い、軍政の犠牲になって いる人々や、そして抵抗する人々の動きを伝えようとしていることに、日本社会は最大の敬意を寄せ るべきだ。そして日本の市民は、助けを求めるミャンマー市民の切実な声を受け止め、これと連帯す べきである。  私たちはミャンマー国軍に対して、久保田徹さんおよび、同時に拘束された2人のミャンマー人男 女の即時解放を要求する。そして、ミャンマー市民に対するすべての人権侵害をやめ、民主的に選出 されたアウン・サン・スー・チー氏らを解放し、すべての権力を返還することを要求する。日本政府 には、国軍に対する一切の協力をやめ、久保田さんの救出のために全力を尽くすことを要望する。 以上 2022年8月1日 オリンピック終息宣言展実行委員会 周香織、戸山恢、吉川和江、近藤あき子、土方美雄、阿部尊美、山田葉子、タジマカズコ、三木祥子 与那覇大智、坂内美和子、山崎春美、櫻川豊敏、田島伸二、平井勝正、多田正美、花田伸(順不同) 連絡先:speaking-artists@tutanota.com

2021年10月1日金曜日

さいとうたかを訃報に触れる各紙のコラム

  劇画家「さいとうたかを」が亡くなった。10月1日各紙のコラムがそのことに触れている。7社を確認したのだが、それぞれどんな紹介をしていたのか興味が湧いた。

小社会:高知新聞 2021101


劇画の時代 <BR> <BR> 昔から通っている高知市内の理髪店には、店の隅っこに本棚がある。背表紙を眺めると、あのおなじみのタイトルがまず目に飛び込んでくる。近所の中華料理屋さんに行っても同じシリーズの本が数十冊ずらりと並んでいる。 <BR> 超一流の腕を持つスナイパー(狙撃手)デューク東郷が、国際社会の裏側で活躍する漫画本「ゴルゴ13」。作者、さいとう・たかをさんの訃報に接した。 <BR> 今年7月にも、「最も発行巻数が多い単一漫画シリーズ」として、ギネス世界記録に認定されたばかり。ゴルゴは要人暗殺を請け負う暗い世界のヒーローだ。なぜ半世紀以上も愛され続けているのだろうか。 <BR> さいとうさんのゴルゴがデビューした1968年ごろは、既に先行していた少年漫画誌の読者が、青年・成年期に差し掛かっていた。漫画は「子どもが読むもの」から、大人の鑑賞に堪える文化へ脱皮する時期だった。 <BR> 「漫画で育った人たちは、大人になっても必ず漫画を読んでくれる。確信があった」とさいとうさんは語っている。時代の波に乗ったという前に、本人に時代をみる目があったのだろう。こうして劇画の時代は開かれた。 <BR> ゴルゴのタフで無口な外見は、俳優の高倉健さんからイメージを膨らませたとは作者の弁だ。ならば、ただ強いだけではなく、胸に秘める人間味もあろう。漫画誌連載はスタッフが継承するという。たぐいまれなキャラクターの今後を見守りたい。 <BR>


 エッセイのような書き出しで、筆者の身の回りからはじめる。「ヒーロー」と言われると、どこか抵抗感があるが、現代史そのものを扱っているのが、魅力のひとつだと思う。高倉健のイメージだから「胸に秘める人間味・・」とあるが、「人間味」があったとしても、それが需要な展開となっているわけではない。基本は非情な狙撃者なのだ。筆者は何を言いたかったのだろうか。



北斗星:秋田魁新報 2021101


学生時代、下宿近くの定食屋に「しょうが焼き」と「にんにく焼き」があった。ともに豚肉を使ったメニューで、よく食べたのは値段が安い「にんにく」の方。ある日、少し味が違っていた。会計はいつもと同じ。店主から「しょうが焼きもうまいだろう」と声を掛けられた。 <BR> 漫画家さいとう・たかをさんの訃報に触れて、40年も前に定食屋で受けたサービスを思い起こした。店には雑誌や漫画本が置かれ、その中にあったのが「ゴルゴ13」シリーズ。1冊を読み切ってから席を立つのが常だった。 <BR> 謎に包まれた超人的スナイパー(狙撃手)が世界を飛び回る姿は、アクション映画を見るのにも似た迫力があった。東西冷戦をはじめ、変化する国際情勢をリアルに描いて人気を集めてきた。 <BR> 連載開始から半世紀余り。最新刊は202巻と世界最多の発行巻数を誇る。さいとうさんは分業制による漫画制作を提唱し、早くからプロダクションを設立。そのおかげもあって今後も連載が継続される。 <BR> 漫画好きで知られる麻生太郎財務相も愛読者。小泉内閣の総務相時代には大臣室に主人公の等身大イラストを飾ったとか。大臣が漫画で国際情勢を勉強するのでは少々心もとないが、幅広い読者層を示す逸話だろう。 <BR> さいとうさんの漫画の全原画約11万点は、横手市増田まんが美術館に所蔵されている。同館所蔵の原画約40万点に対し、突出した点数といえる。いずれ追悼展が開かれる機会があればぜひとも見に行きたいものだ。 <BR>


 高知新聞と同じように、このコラムもエッセイ風にはじまる。しかし私は「しょうが焼き」と「にんにく焼き」とどっちが美味しいのか興味がある。店主は貧乏学生に奮発してしょうが焼きをだしたのだろうか。私が店主なら、「金はいらねえから食ってけ」と言うだろう。このコラムだとそのことが気になって仕方がない。あとは、まあウンチク。麻生太郎に言及しているところは気に入らない。どちらかというと、麻生はゴルゴによって狙撃される立場だろう。


余録:毎日新聞 2021101


中学時代、ワルを気取って試験の解答用紙を白紙で出した。「白紙は自由だが、名前だけは書きなさい。それが人間の責任だ」と諭してくれたのが東郷先生だった。その名を代表作に使った。暗殺を請け負うすご腕スナイパー「ゴルゴ13」の別名、デューク東郷である。 <BR> 84歳で亡くなった漫画家、さいとう・たかをさんのエピソード。「人間社会が約束事で成り立っていると気づかされた」と振り返っている。中学卒業後、理髪師をしながら貸本屋向け漫画家としてデビューし、「劇画」の草分け的存在になった。 <BR> 手塚治虫氏や石ノ森章太郎氏を感性で作品を生み出す「天才」と呼ぶ一方、「職人」を自称し、分業システムを取り入れた。現実の世界情勢を背景にした「ゴルゴ13」にその利点が生かされた。 <BR> 小説家や銀行マンを起用した脚本作り。精緻な武器や背景描写担当のスタッフ。専門家もうならせるリアリティーが半世紀を超える長期連載につながった。大銀行の合併劇を現実に先駆けて作品化し、頭取も読んだといわれた。 <BR> 外務省は岸田文雄外相時代、在外邦人の安全対策マニュアルに「ゴルゴ13」を起用した。河野太郎前外相は動画版の声優を務めた。麻生太郎財務相も熱心なファンの一人だ。 <BR> 単行本は200巻を超えてギネス世界記録更新中。本人もいつ終わるか1人では決められないと語っていた。連載継続が可能なのは分業制ゆえか。大変革の時代。日本マンガ隆盛の礎を築いた巨星亡き後も現実の先を行く作品を読みたい。 


 麻生太郎・岸田文雄・河野太郎などの政治家に言及する。総裁選と絡めているのか?冒頭部分は、麻生太郎がいいきになって若い記者たちにウンチクを垂れていた内容。毎日新聞ともあろうものが、何をか言わんや、という感じが否めなかった。


正平調:神戸新聞 2021101


せりふに「……」が多い。愛読者のみなさんにはおなじみだろう。漫画「ゴルゴ13」に登場する殺し屋、デューク東郷は極端に口数が少なく、めったに感情を表さない。「……」である。 <BR> 考えてみれば、殺し屋の「……」ほど恐ろしいものはないが、その胸の内は読者の自由な解釈に委ねられる。推理したファンからの手紙を読むのが、作者であるさいとう・たかをさんの楽しみでもあったそうだ。 <BR> 生みの親が世を去ったとの知らせを、デューク東郷はどこで聞いたか。いつものように表情を変えず、無言の「……」を貫きながら、きっと心の中では泣いているに違いない。84歳。さいとうさんが亡くなった。 <BR> 中学生のころ、雑誌に投稿した漫画が「子どもらしくない」と酷評された。「今に見ていろ」。その大人っぽい作風と完成度の高いストーリーで、漫画界に「劇画」という新ジャンルを確立した不屈の人である。 <BR> 今年7月、「ゴルゴ13」の単行本が単一漫画としてはギネス記録となる201巻を数え、ファンともども喜んでからまだ間がない。寂しさは募るが、故人の遺志を継いだ制作スタッフによって連載は続くという。 <BR> 「用件を聞こうか」。依頼人の無駄口を遮る名せりふは今後も健在だろう。ゴルゴ13は、不死身でござる。



 「・・・」に注目している。他に「山形新聞」もそのことに触れている。饒舌な殺し屋はクールではないと思うので、総じて皆寡黙であろう。「仕置人」だって、アランドロンの「サムライ」だって口数がすくない人物だった。作者が亡くなり、「デューク東郷」が「心の中では泣いている」というのは、個人的な感傷すぎる。「不死身でござる」という言葉で締めるのは、筆者はさいとうたかをの真のファンではないからだろう。



談話室:山形新聞 2021101


台詞(せりふ)で沈黙を表す「…」がこれほど多用され、かつ似合う主人公もいまい。人気漫画「ゴルゴ13」のデューク東郷である。切れ長の目に鋭い光を宿す超一流の狙撃手(スナイパー)は余計な言葉は発せず仕事をこなす。 <BR> ギネス世界記録に認定されるほどの長寿作品だが、当初は今より口数が多かった。自分の感情をつぶやいたり、他人に意見したり。次第に無口になっていったのは「できるだけ距離を置いて描くよう気をつけた」ためだったと作者さいとう・たかをさんが自伝に書いている。 <BR> わが子同然の主人公を世間に受け入れられるように育てるには、溺愛してはいけない。突き放し、冷静に描かないと物語が行き詰まる。そんな自戒が、人としての弱さや複雑さなども持ち合わせた寡黙な主人公の内面に読者を引き込むことに成功したと言えるかもしれない。 <BR> さいとうさんが亡くなった。漫画家ちばてつやさんは「こわもてで気難しそうだが、誰よりも周りを思いやる、優しい紳士だった」と偲(しの)んだ。自伝には負の側面を持つヒーローを描く作者像を守るため自分を演じているとあった。妥協を許さぬプロの仕事ぶりを改めて思う。 


 主人公が我が子とか、作者が生みの親とかの表現は好きではない。作者の業績の凄さを語ってほしい。



卓上四季:北海道新聞 2021101


アウトローの理由 <BR> <BR> 素行不良な悪ガキのくせに理屈っぽい。大人にとっては扱いにくい子どもだった。体罰を受けた同級生がいれば、「悪いことだと分からせるのが教師だろう」とくってかかった。漫画家さいとう・たかをさんである。 <BR> 敗戦で価値観がひっくり返った少年時代。善悪すら、その時代の都合なのではないかと疑問を感じた。「その時代でしか通用しない善人は描けない」。登場人物にアウトローが多いのも得心がいく。 <BR> 隻眼の浪人、無用ノ介は剣はしょせん殺人の道具と言い、孤高のスナイパー、デューク東郷は足元のアリに気を配る。ささいなセリフやしぐさににじむ葛藤や逡巡(しゅんじゅん)。代表作「ゴルゴ13」が半世紀以上続くのも、そんな普遍性を求める思いがあるからだろう。 <BR> 家業の理容店を継ぎながら貸本漫画でデビューしたが作風が定まらない。そんな時、先輩漫画家の工藤一郎さんが「さいとうは漫画を描くために生まれてきたような男だ」と声をかけてくれた。 <BR> 大人も読める漫画を目指すさいとうさんの努力を見ていたのだ。「そんな見方もあるかと開き直れた」。劇画という分野を確立した道程には先達の導きもあった(「劇・男」リイド社)。 <BR> 晩年は漫画の隆盛を喜ぶ一方で、若手の勉強不足を気にかけていた。身辺雑記や安易な世界観では成長もないということであろう。未熟な者に、〝いつか〟は、決して訪れない。ゴルゴ13の言葉である。 <BR> <BR>


 さいとうたかをの価値観について述べている部分がいい。

敗戦で価値観がひっくり返った少年時代。善悪すら、その時代の都合なのではないかと疑問を感じた。「その時代でしか通用しない善人は描けない」。登場人物にアウトローが多いのも得心がいく。」

 善とは何か、悪とは何か、すべては相対性の中に投げ出されている。そして「無用ノ介」について説明するところなどは、さいとうたかをの劇画通かと思える。「身辺雑記」や「安易な世界観」と言い放つ、筆者は何を考えているのだろうか興味がわく。文学の世界でもこれは言えるのではないだろうか。


 もう1紙東京新聞もこのことについてのコラムだったが、ネットの「縦書きコラム」に掲載されなくなったので、ここで紹介できない(めんどう)。ただ、東京新聞はわたしが購読している新聞なので内容は読むことができた。東京新聞のそれは、さいとうたかをが挫折のなかでいかに頑張ったか、というちょっと教育的な内容で紹介していたので、私の好みではなかった。


 さいとうたかをは、ボーイズライフの007の連載で知った。その雑誌では佐藤まさあきの「Zと呼ばれる男」も連載していた。さいとうと佐藤は同年代、さいとうたかをがひとつ年上。「007」「0011ナポレオンソロ」「無用ノ介」「捜し屋はげ鷹」などたくさんの作品があった。



2021年1月23日土曜日

ギリヤークさん


 30年以前のことだったと思う。たまたま渋谷の駅前で路上にチョークで丸を引いていた人を見かけた。黒い帽子に黒い服、その粗末とも言える姿は、まるで公園で生活している人のように思えた。幟に近藤正臣という名が見えた。またたくまにその人は、紅いじゅばん姿になったかと思うと、「じょんがら〜」と叫んだ。運動会で使うようなスピーカーから激しい津軽三味線が鳴り響く。まるで乞食僧のようでもあった。わたしは、一瞬で魂をつかまれてしまった。青空舞踏公演。舞踏といえば、土方巽、大野一雄、天児牛大、麿赤兒、勅使川原三郎、などとはまったく違う、生活と表裏一体となったものだった。
 以後ギリヤークさんから、公演の案内や年賀状などをいただくようになった。もうお歳なのでそのようなことはなくなったが、今回の記録にも投げ銭的な協力をし、エンドロールに私の名前も入れていただいた。美術家花田伸と。


2020年11月3日火曜日

「谷津書庫」とは何か

 習志野市にこのような建物がある。『谷津書庫』という小さなプレートが一枚だけ門に付けられている。はじめてこの建物を見た人は、なんだかわからないだろう。周りは住宅地であり、リハビリセンターが道を隔てた隣にある。


 無機質なコンクリートの建物であるが、これが建造されているとき、施主や建設業者の情報が道に面してかけられているのを見たことがある。そこには「大蔵省」と書かれていた。大蔵省財務省の書類を保管してあるのだろうか、たぶんそれ以外には考えられない。頑丈な窓は一枚一枚防犯装置のようなものが中から付けられている。






 手がかりがなく調べることをやめていたが、先日財務省のサイトでこのようなものを見つけた。






 ここに掲載されている「谷津書庫」というのは、この習志野市にあるこの建物のことではないだろうか。この文書にも詳しいことは何一つ記載されていない。

 また、国立公文書館のサイトでこのような文を見つけた。何か関係することがあるのだろうか。

 「関東大震災によって発生した火災のため、多くの省庁は公文書を失いました。大蔵省の場合も例外ではなく、震災後の写真からその惨状がうかがえます。文書保存の必要性を再認した大蔵省は、コンクリート製「不燃書庫」の建造と、各方面からの資料収集による焼失記録の復旧に努めました。」      













 

2020年9月6日日曜日

Kさんからの残雪



 残雪の『カッコウが鳴くあの一瞬』をKさんからいただいた。残雪(鄧小華)は中国現代作家である。表題を含む九つの短編集であるが、読む進めていると個人的には特段違和感を感じなかったものの、一般的に多数の読者を獲得する作家とは思えなかった。物語で読ませるものではなく、娯楽性があるわけでもない。ただ特定の読者にとっては、この作品の意味するところが痛切に理解することができるのかもしれない。そうでなければこれほどアバンギャルドに書き続けることはできないはずだ。そして、見逃してはならないことは作者の深層に深い闇が抱え込まれているかもしれないということだ。
 私には、物語の範疇でこの作品を捉えることができない。ではどう捉えるのかというと、『詩』という言葉がうかびあがってくる。それは「物語を拒絶した叙事詩」ということだ。設定はたしかにあるが、ストーリーではなく、場面が唐突に出現する。例えば、スライド写真を映している感覚だ。プロジェクターがカシャリカシャリと定まった時間を刻みながら静止画像を映し出してゆく。現在のテクノロジーならば、静止画像であれ耳障りのいい音響とともに、フェイドイン等々ストレスを感じさせないデザイン性豊富な方法がいくらでも可能だ。しかし、私の感覚では残雪の小説は、そのようなテクノロジーよりも身体感覚に近いスライド写真なのだ。その感覚が心地よい。リバーサルフィルムが時を刻み、送られて行き、全てはフラットで等価なものとして目の前に並べられてしまうことにより、重苦しい場面は不思議に浄化される。この恐ろしいほどの企ては、作者自身としても、微塵も考えていないだろう。
 語は文節を作り、文となり、段落を形成して、まとまりのある情報を伝える装置になる。しかし、そんなことにこだわらないところに詩そのものの存在がある。おそらくこの作品は、そのような意味や情報の定石にこだわらないで読んだ方がいい。
 
 気になったところをあげてみたい。

   「隣人はむこうの高塀の下で、あの穴を火かき棒でつついている。」
                     (『阿梅、ある太陽の日の愁い』)
   
   「彼らが外でわめきちらしながら、ガラスをつぎつぎに割りまくっている音が聞
   こえる。」             (『霧』)

   「彼が大きなハンマーをふりかざし、その鏡に打ちかかっていくのが見えた。」
                     (『雄牛』)

   「肺気腫にかかった者はみな、夜中によその家の戸をたたきたがるんだよ。」
                     (『カッコウが鳴くあの一瞬』)

   「ガラス板の上の文鎮が壊された」
                     (『曠野のなか』)

   「髪ふりみだして飛びこんできて、わたしの寝室をところかまわずひっかき
   まわし、鏡や湯のみをたたき壊してしまう。」
                     (『刺繍靴および袁四ばあさんの苦悩』)

   「ある人がある場所をひとりぼっちでさまよい、両手に握った小石を粉微塵に砕
   いているのが。」
                     (『天国の対話』)

   「深夜の寒風がひゅうひゅう吹くとき、ある扉を力いっぱいたたくと、」
                     (『素性の知れないふたり』)

   「わたしは鶴橋を探してめちゃめちゃに振りおろし」
                     (『毒蛇を飼う者』)

 これらのことが、とりたてて意味があるのかどうかは分からない。しかし、なぜか気になっている。残雪という現代作家を読んだのもはじめてであり、親和的読者でもないので、早急で無責任なことを言えないが、なにかありそうな気がしてならない。


2020年4月29日水曜日

蔓延しているのは新コロナウイルスだけではない。



 新感染症拡大蔓延で、世界が混乱している。そんな中でも、表層の裏でさまざまな事象が現れている。自然現象ではなく、意図的な意思を持った主体が行動しているのだ。日本国でも確かにそれが見られる。改憲案や種苗法のこともこの機会に内閣から出される。私はけして視線の方向を限定させてはいけないと自ら肝に命じている。この記事のことは、けして対岸のことではない。じつはひしひしと日本の中に蔓延していることだ。内閣が政府に対する批判を情報収集しAIを活用して対応するという。それに25億円の予算が計上された。ささやかでも発言する必要はある。「物言わぬは腹ふくるるわざなり」



2020年1月1日水曜日

コンテンポラリーダンスというもの


勅使川原三郎・佐藤利穂子 
ダンス公演

『忘れっぽい天使 
ポール・クレーの手』



シアターXでの公演、もう何度勅使川原のダンスを見ているだろうか、数えたらきりがない。




 最初に勅使川原というダンサーを知ったのは、勅使川原がまだ髪を剃っていないとき、宮田圭がいたころだ。ダンス以前に舞踏という表現に興味を持っていたが、その流れでコンテンポラリーダンスについて知るようになった。ある放送局の公演記録が放送されていたことがあった。それは日夏耿之介の『夜の思想』という作品を元に創作したダンスだったと記憶している。88年のことだったようだ。転んだり立ち上がったり転んだり立ち上がったりするダンスだった。わたしにとってダンスという表現よりも、山海塾と大野一雄の踊りから身体表現というものに興味があった。つまり暗黒舞踏だ。土方巽の著作や、記録からballetというものから離れた、もうひとつの身体表現であった。それは西欧の芸術表現ではなく、アジアの土着的でそれぞれの民族の日常を元にした踊りの根源に向かうものだった。
 勅使川原の表現は、わたしの暗黒趣味と平行して理解してきたものであった。それにしても、そのモダンな様式は、洗練されたアートのひとつであった。最近の舞台は、シンプルであり、照明もそれほど斬新なものではない。以前は、といってもだいぶ前になるが、山口小夜子が参加していたときには、背中に鉄板を仕込んで電動ヤスリで火花を散らすなどの趣向があり、「物語る」部分も多くあった。またサックスとの共演や、ガラス片が敷き詰められたステージだったりしたこともあった。最近は、勅使川原と佐藤のふたりの舞台が多いように思われる。そして余計なものはできるだけ削ぎ落としているようにも思える。しぜんと身体の動きが闇から浮き上がってくる。
 身体表現にはさまざまなものがあるが、ダンスという範疇に属すものは踊り手の持つ関節の可動域を駆使した組み合わせによる積分であり、それが表現になって行く。balletのように、物語る対象がある場合には、忠実に法則を厳守することが最低条件となるだろう。しかしどのようなダンスであっても、個の鍛えられた関節の可動域であっても、おのずから肉体という限界からとき離れることはない。近年の勅使川原のダンスは、物語ることよりも、身体の特性と限界からどのように解放されるか、ということに向かっているような気がする。もちろんフィジカルな側面ではそのようなことはありえない。それぞれの踊り手によってその個性的なものが表出してくると思うが、その個性というものも先に触れた身体的な限界がある。その領域の中での積分だとは思うが、そのことにどのような意識で向かうかということがひとつの視点を示すことになる。最近の勅使川原のダンスに、解放と限界、限界と解放のあくなき作業を感じているのだが、もちろんこれは勝手な見方であることは承知のうえ。しかし、わたしの勝手な思考がどこかで自分自身の問題を解くことのkeyになると信じている。


2019年9月23日月曜日

9月の映画狂No.9


人生をしまう時間(とき)

               監督:下村 幸子  2019年 日本

 NHKエンタープライズ下村幸子のドキュメンタリー作品。BS1で放映されたのが評判となり、映画作品として再編集された。埼玉の新座市にある堀ノ内病院のふたりの医師と看護師、そして患者さんの記録である。
 それぞれの事情を抱え、最後を自宅で迎える。在宅医療とは、ターミナルケアとは、死とは、家族とは。病院ではなくどうして自宅なのか、これはさまざまにいろんな条件や事情や制度など複雑に絡んでいるように思う。私の中学高校の同級生も四十代で他界したが、自宅で最後を迎えた。彼の人生はけっこう苦労が多かったと思う。ここに登場する患者さんと医師たちの心の交流は極めて人間的な温かみに溢れていた。全盲の娘に看取られて静かに去って行く父親。最後のとき小堀医師(80歳)はその場から離れる。家族だけの共有の場所と時間を邪魔してはならないという思いなのだろう。医療現場ではほとんどそのようなことはない。死亡時刻はしっかりと医者が確認しなければならず、不可逆的状況なのに最後の手立てをしようとする。個人的な体験であるが、40年ぐらい以前父親が57歳で世を去ったが、病院での最後は母親以外はみな病室を追い出されてしまった。20代だった私は、いいようのない不条理を感じた。しかし、いまもって基本は変化していない。医師としての常識を逸脱する小堀医師の行動は極めて人間的であった。
 52歳の余命いくばくもない娘と暮らす70代の母。そこに静かに寄り添う堀越医師(58歳)がいる。病状をごまかすことなく伝える。死の直前は終わりを迎える穏やかさともいえる表情を湛えていた。最期はみな穏やかである。
 最期をむかえる人と家族には、言葉が必要だ。むしろ言葉しか必要ではないのかもしれない。「はじめに言葉あり、言葉は神と共にあり、言葉は神なりき」という私が若いころ接した言葉を思い出す、聖書ヨハネの福音書である。医師の到達点は言葉なのかもしれない。もちろん聴力が不自由なひとは手が言葉だろうと思う。
 堀越医師も小堀医師も外科医だった。すこし乱暴かもしれないが、外科医には言葉はいらない。素早い判断と完璧な手術の能力が必要とされる。堀越医師は国際医療センターの職員として、開発途上国をまわり活動してきた。マザーテレサの「死を待つ人の家」を訪れたときに感じたことを考え続け、自分の不得意な終末期に向かい合う場に居ようと決断した。小堀医院は、東大病院などで外科医を務め定年を迎えた。そしていままでの自分は職人的なところに走り過ぎた、これが反省だ。と言っていた。そしていまは堀ノ内病院に身を置く。小堀鷗一郎80歳、母親は小堀杏奴、明治の文豪であり軍医総監森鷗外の娘である。
 上映終了後の舞台挨拶で小堀医師が語る。この患者さんはすばらしい人だ、業績があるわけでも勲章をもらっている人でもない。しかし豊かな物語をもっている人だ、と。




      堀越洋一医師   小堀鷗一郎医師  下村幸子監督



9月の映画狂No.8


人間失格


                   監督:蜷川実花     2019 日本 

  この作品の感想を書くつもりはなかった。それと、特に観たいという欲求もあまりなかったのだが、藤原竜也が坂口安吾を高良健吾が三島由紀夫を演じている予告編を観て、一応文学分野畑であるので確認しようと近場の上映館に行った。
 蜷川の写真や映像作品を完全に理解しているわけではなく、どちらかというと感性が合わないと思っていたが、今回においても同じだった。どうしてこんなにも蜷川が注目され、評価を受けているのだろうか。それともそれを理解できない私自身に問題があるのだろうか、なんとも判断できない。写真も映像もどぎつい原色が目を指す。原色どころか、蛍光色と言ってもいいかもしれない。フィジカルに視覚上直接的に網膜に訴えかけてくる。そこに何かしらの実験性や裏切りという策略があるとも思えない。映像的には鈴木清順に近いとも思える。ただ鈴木清順の徹底した策略に支えられた邪悪な感じは私自身には感じられなかった。短い場面が次から次へとカット割りのように差し込んでくる。映像作品として蜷川の独創性があるのだろうか、深層の奥に深まってゆく物語性を追求する作家ではなく、あくまでも映像の表層を表現する作家だと思うので、そこが勝負だろうと思う。坂口安吾の言葉や、バールパンの様子などには興味惹かれるが、太宰という存在そのものに迫ってゆくということが目的ではない。3人の女性たちの深層に迫るというわけでもない。そうであるならば、もっと感情の抑制と激流が交互に紡ぎ出されていいのではないかと思う。太宰治を素材としたアーティストのプロモーションビデオならば映像として理解できる。120分の物語作品としては、私の理解領域から外れてしまう。
 まあ、市井の老人の戯言であるのでご容赦いただきたい。


9月の映画狂No.7


今さら言えない小さな秘密

               原題:RAOUL  TABURIN
                                                              
                                                               監督:ピエール・ゴドー  2018年フランス
 楽しい作品。ジャン=ジャック・サンペ(作家・イラストレーター・漫画家)の絵本が原作。脚本は『アメリ』のギヨーム・ローランが関わっている。楽しい作品ではあるが、楽しいだけではなく、少し切ない。しかし主人公ラウルにとっては少しどころか、人生最大の苦痛なのだ。個人にとっては最大級の問題だが、他にとってはなんということもない小さなこと、そこがユーモアの源泉なのかもしれない。20代後半のころギリシャ美術史家の故前田正明先生から話を伺ったことがある「一般庶民の悲劇はコメディであり、王侯貴族の悲劇がトラジディだ」と。90分のなかで、ほんの一言であったが未だに忘れることができない話だった。この作品を観たときそのことが思い起こされた。
 南フランスのとある村、ラウル・タビュラン(ブノワ・ボールヴェールド)は評判のいい自転屋さんだ。あっという間に不具合を直し、村人は自転車のことをタビュランと呼ぶようになった。美しい妻(スザンヌ・クレマン)と、ふたりの子供に恵まれ、穏やかな村の人々に囲まれた温和なおじさん。しかし彼は自転車に乗れなかったのだ。これが彼にとって生涯守るべき秘密だったのだ。誰も知らない真実。何かに理由をつけて自転車に乗らないようにしていたのだが、有名な写真家が村に現れ、彼を取材したいと言い出した。この窮地をどうしたら逃れることができるのか、策略が空回りし続ける。
 私などは、自転車に乗れないぐらいなんでもなかろう、と思うのだったが。作者サンペは幼少の頃から、貧しい生活を支えるための道具として自転車は必需のものだった。しかし思えば、洋の東西を問わず、昔の自転車は仕事で使うものだった。古いイタリア映画でも粗末な自転車はよく出てくる。中国映画にだって出てくる。しかし現在はピチピチのサイクルジャージに身を包み、高級なロードレーサーをかっ飛ばしている中高年のなんと多いことか。フランスはましてトゥール・ド・フランスの聖地ではあるまいか。フランス人は自転車に特別な思い入れがあるのだろうか。余計な方向にずれてしまったが、小さな秘密が劣等感となることは多いが、誰もがそんなことを抱えているのではないか、いっそ言ってみたら心が軽くなり、みんながほっとするのかもしれない。
 面白く楽しい作品のなかに、とても大切なことがこっそり隠されているような、良質の作品であった。
 ひとこと、邦題がまたまた客よせ意識。「ラウル・タビュラン」という個人名がいいのだ。これは個人の問題が複数の他、つまり世間と言い換えてもいいかもしれないが、その評価の意味を考えさせられていると思うのだ。





2019年9月22日日曜日

9月の映画狂No.6



プライベート・ウォー

        監督:マシュー・ハイネマン  2018 イギリス・アメリカ

 監督は『カルテルランド』などの硬質な作品を発表しているマシュー・ハイネマン。世界の不条理に対して、彼のカメラは鋭い視点で切り込んでいる。日本用のフライヤーでひとつ気に入らないところがある。「挑む女は美しい」というキャッチコピーだ。この男目線の一言で作品を台無しにしてしまう。反省してほしいものだ。
 われわれはこの作品をしっかりと受け止め、戦争や紛争の地域が確かにこの地上にあることを考えなければならない。ジャーナリスト、メリー・コルヴィンを知っているだろうか。恥ずかしながら私が初めて知ったのは『バハールの涙』という映像作品でその存在を知った。女性クルド人と戦場行動をともにする片目の女性ジャーナリストが、メリー・コルヴィンという人をモデルとしていたということだった。メリー・コルヴィンは、1956年生まれのアメリカ人。UPIのパリ支局長の後、イギリスのサンデー・タイムスに移籍し、海外記者として戦地を取材しつづける。スリランカ内戦で左目を失い、極度のPTSDに苦しむ。しかし彼女は戦場のありさまを取材し世界に発信するという自らの使命を優先する。彼女の最後の地はシリアだった。政府は反体制の砲撃で亡くなったと発表したが、カメラマンのポール・コンロイは政府軍のメディアセンターを狙った攻撃だったと証言。彼女はシリア政府の嘘を暴き、狙われていた。戦争に巻き込まれたのではなく、ターゲットにされていた。ものすごい人だ。このようなジャーナリストたちが存在するので、我々は世界の不条理を知ることができる。そして真実を追求することが、とりもなおさずこの世界を救う糸口になるに違いないと私は確信する。私の一歳下、そして56歳で命を落とした。感慨深いものがある。
 メリー役にロザムンド・パイク。ポール役にジェイミー・ドーナン。








9月の映画狂No.5



やつぱり契約破棄していいですか!?

原題:DEAD IN A WEEK(OR YOUR MONEY BACK)

             監督:脚本 トム・エドモンズ    2018  イギリス

 アイデアとしてはそれど珍しくない。記憶に新しいのは1990年のアキ・カウリスマキの『コンタクト・キラー』(フィンランド・スウェーデン)とどう違うのか。会社をクビになった孤独な主人公が、自殺もうまくできなくて殺し屋を雇ってしまう。しかしその後恋人ができてしまって・・・。というのが、『コンタクト・キラー』(イギリスで撮影)だった。
 そしてこの作品だが、内容はほとんど同じ。小説家を目指していたウイリアム(アナイン・バナード)は作品が書けず、いっそ自殺したいと思うようになり、さまざまな方法を試すがうまくいかない。とうとう外部委託を選ぶのだ。そこに英国暗殺者組合のレスリー(トム・ウィルキンソン)に殺し屋があらわれる。彼はノルマを達成できず、組合を除名されようとしている。妻にはそろそろ引退したら、と言われるが根っからの仕事人であり、なかなか決心がつかない。
 このような物語は、ユーモアがなければつまらない。なぜなら、SNSで自殺願望者を探してその手助けをする、という犯罪が実際にあり、ともすれば作品のアイデアに社会的倫理感を持ち込んでしまう可能性があると思うからだ。しかし、それは杞憂かもしれないが。依頼人の青年と殺し屋の老人のバタバタが面白い。生死、生活、社会など普遍的なテーマにも繋がる。徹底的なコメディの先に、真摯なテーマがある。それがいい。








2019年9月18日水曜日

9月の映画狂No.4


 ラスト・ムービースター

      監督:脚本 アダム・リフキン 2017年 アメリカ 

 バート・レイノルズはハリウッドスターだ。ハリウッドが似合うというよりハリウッドそのものと言ったほうがいいかもしれない。何が言いたいかというと、カンヌやベネチアと対局的な存在だということである。この作品の中で頻繁にクリント・イーストウッドと比べる場面があるが、スターのヴィッグ・エドワーズ(レイノルズ)は、作品の選択がいけなかった、と言う。ふたりはともに活動期を同じくした俳優であり、アクションを中心とした俳優だった。しかし、イーストウッドは徐々に作品の質にこだわるようになった。イーストウッドの評価はいまでは硬質で良質な作品を生み出す映画作家である。もちろん往年のアクションスターが、そのままレベルを保ちながら老年まで続けることはないだろう。しかし、この主人公エドワーズは晩年を迎えても、ジタバタジタバタしている。このジタバタ感がなんとも愛しいのだ。思えば、ほとんどの男たちはこのジタバタで老後を迎えているのではないだろうか。
 往年のアクションスターエドワーズ(バート・レイノルズ)は、ひとり豪邸で過ごしている。体も思うようにならず、愛犬と寄り添いながら生活していたのだが、その愛犬も老犬となり余命を全うする。喪失感におそわれるエドワーズだが、そこにファンの若者から映画祭への招待状が届く。彼は友人に説得されその映画祭に老体を引きずるようにしして参加するが、なんとその映画祭は場末の居酒屋で開催される若者たちのお祭り騒ぎだったのだ。憤懣遣る方無いエドワーズと若者たちのゴタゴタジタバタが、なんとも言えないユーモアに包まれ、優しい作品になっている。エドワースと若者たちはお互いに理解し合い、相互の信頼と尊敬が深まる。
 バート・レイノルズはなんともいい表情だ。人としていい年の取り方をして来たのかも知れない。昔は性欲男にしか見えなかったが、老年のレイノルズは悲哀がに滲み出ていていい。昨年2018年、82歳の人生を終えた。        



2019年9月12日木曜日

9月の映画狂No.3



ジョアン・ジルベルトを探して
原題:Where are you, João GILBERTO?

                                          監督:ジョルジュ・ガショ  2018 ドイツ・フランス・スイス
                 言語:ドイツ語・フランス語・ポルトガル語・英語

  ジョアン・ジルベルトとは何者か、ボサノバと言えば誰もが聴いたことがある音楽だと思うが、その伝説的存在がジルベルトである。1931年ブラジルに生まれ、2019の7月、つい最近亡くなった歌手である。カルロス・ジョビンなどとともに、ボサノバの創設者と言われる。彼は2008年以降、他との交渉を絶った。自室で昼夜逆転の生活をしていたとも、食事は常にドアの前に置かれて処理されていたとも、さまざまに伝説が流れる。まるで引き籠りのような生活だ。なぜ彼は姿を消したのか、その真相は誰も知らない。
 マーク・フィッシャーというドイツの作家・ジャーナリストがいた。40歳で自らの命を絶ったのだが、この男がジョアンを探していた。マークはブラジル中いや世界中ジョアンを探し続けた。もちろん、所在はわかるが、絶対に会うことを拒否し続けるジョアン。単純な発想でマークの精神を分析することはできないが、彼の文学や世界への対処の仕方は、実に内省的なものだったのではないだろうか、そう思えてならない。そのマークを中心軸にして、監督ジュルジュ・ガショはジョアンを探す旅を続ける。マークがたどった場所を忠実になぞりながら、ジョアンの謎を解き明かそうとしているのだが、じつはマークの存在そのものが浮き彫りにされてくる。
 





2019年9月7日土曜日

9月の映画狂No.2

  メランコリック

               脚本:監督 田中征爾    2018 日本

 プロデューサー兼主人公鍋岡和彦役:皆川暢二。殺し屋松本晃役:磯崎義知。監督:田中征爾の三人には共通点がある。それぞれ1988年89年の生まれであり、皆川はワーキングホリデーでカナダへ、田中はカリフォルニアの大学、磯崎はロンドンで演劇の修行。前向きの若い世代だ。
 この作品の面白さは、銭湯には夜の顔があるという発想だ。銭湯で人を処刑し、お湯を沸かす窯場で屍体の処理をするというなんとも合理的なことだ。なるほど、すべては銭湯で完結できて、危険性が極めて低い。そしてこれをユーモラスに扱う。ユーモラスに扱うためには余計な説明や、社会性を作品に持ち込まないことだ。もし、この設定で韓国での作品であったならば、真っ向から攻めて行く作品になるだろう。どちらがどうだ、ということではなく、この三人の映像作りの面白さということになるだろう。ただ作品として普遍的なものを追求する方向ではない。ところどころにウイットの利いたところもある。皆川と松本が飲みに行って、こんな話になる。皆川は東大を卒業しているのが、なんで一回も就職したことがなく、フリーターなんだ。と松本が詰め寄る。皆川は、なんで東大出たらいい会社に行っていい生活しなければならないんだ。逆に皆川が松本に詰め寄る。趣味があるのか、楽しいのか。それにたいして松本は言う、なんで楽しくなけりゃいけないんだ。なるほど、本来大学というところは、勉強したくて行くところであって、就職とかに有利になるということは関係ないはずであり、楽しく人生を送るために趣味は必要だというのもステレオタイプの考え方かもしれない。すべての人間が楽しい人生を送っているかどうかは、はなはだ疑わしい。ほとんどの国民は生活のため自分自身を犠牲にして生活しているのかもしれない。こんなことは当たり前といえば当たり前であり、あえて真正面から問われると、鼻白んでしまう。
 皆川に恋人ができたり、松本は謎が多かったり、その場その場の展開が巧妙である。ヤクザに脅されて店主が殺しの片棒を担いでることがすべての始まりであるが、なんだかすべてがあっけらかんとしている。爽快でもある。長編作品最初のチャレンジであるらしいのだが、面白い。映画史になんの貢献もしないが、なんとも面白く優れた作品である。
 銭湯の入り口の場面で、住所が猫実4丁目という文字が見える。千葉県浦安の猫実4丁目にある実際の「松の湯」がロケ地になっている。

2019年9月5日木曜日

9月の映画狂No.1


火口のふたり


                脚本監督:荒井晴彦        日本

 白石一文の同名小説の映画化、荒井晴彦は監督よりも脚本が多い。登場人物は柄本佑と滝内公美のふたりで他の人物はでてこない。これだけでもこの作品がどんなものであるのか想像できると思う。わたしはこの小説を読んだことがなく、今後読む予定もないので文学的に判断することは避けようと思う。ふたりの会話と性描写のみでこの映像作品は成立している。社会と個の関係を問いながら疑い、そして個としてそれを解釈する。彼女と彼はかつて恋人であったが、別れて数年が経つ。彼女はアルバイト生活をしていたが、自衛隊員と知り合い結婚が間近に迫っている。彼は結婚し子供がいるが、離婚していまはプータローだ。そんなふたりが、地元で再び会い性に溺れて行く。ふたりの生活環境は確かに社会との関係、あるいは社会が作り出している。人はみな社会的存在であるならば、その構図から逃れることはできない。しかし、その対にあることがSEXなのかもしれない。SEXは極めて限定的な空間でありながら、人間社会において普遍的なことである。こんなことを基軸として考えて行くと、さまざまに理屈付けが可能になってくる。それが存在論として妥当なこともあるが、たんなる屁理屈も出てくる。しかし、個人的にこの屁理屈をこねることが面白い。なぜならこの理屈は他に作用することもなく、わたし自身の思考の中で行われ完結するからである。そしてその先にわたし自身としての結論が導き出される。
 ふたりのSEXはときとして、限定区間から抜け出そうとする。ビルの隙間やバスの中だ。つまり公的空間である。これを単純にタブー視していいかどうか。おそらく議論の場があれば、「社会的に」ということを述べる人は多いと思う。そこには「社会的」という接頭語が必ずと言っていいほど付される。社会と個の関係、国家と存在の関係。このことをSEXをキーワードとして考える。世界には多様に性表現の文芸があるが、その重要性はあるのだ。しかし、これがいかに弾圧されてきたかということも歴史的な事実。
 しかし、ここまで述べてきて、ピンク映画とどう違うのだという考えも頭を持ち上げてくる。難しいのであるが、欲情を刺激するかどうか、それが第一義のテーマとしてあるかどうか、ということも考えられる。しかし、欲情を刺激されて何が悪いのかということもある。割り切ろうと思うからいけないのかもしれない。割り切れなさを抱えるということが文芸的なこと。




2019年8月28日水曜日

山本弘展(曽根原正好企画)



 2019年8月19日から25日まで、渋谷のアートギャラリー道玄坂で開催された「山本弘展」。23日、ユーロスペースで「アートのお値段」というアメリカのドキュメタリーを観て、その足で向かった。オークションで億単位の値がつくビッグスターたち
   の映像を観た後でもあったので、ことさら山本弘という画家の存在に感慨深いものがあった。


 痕跡がいい。きれいに塗り分けられた画面ではなく、何かを確かに描こうとしている。基本は速書きだろうが、その確かな痕跡は描いている画家の息遣いが感じられる。


 題名が『雪の三叉路』なるほどそう言われれば、上にある黒い形は電信柱だということが分かる。そして、それがキツカケで画面の中に黒い十字が登場するものは、全て風景画であると判断できる。左下にサインの弘の字が見えるが、この作者のサインは単なるサインの意味を超えて、画面の一部になり構成要素となっている。ところどころの黒と電信柱の黒とのバランスがきちんととられている。他の作品を見ても、その画面の色彩とサインが見事に調和がとれている。雪深い東北の街で育った私には、この画面がよくわかる。


 おもしろい、とてもおもしろい。人間の顔なのだろうか、それとも何か絶対的なものなのか。さまざまに見えてくる。そして見る者の経験値によって変化する。作者の心は計り知れないが、躊躇と決断、自由と抑圧、それぞれ背反するものがせめぎあっている。アンビバレンツではなく、それらがパラレルに持ち堪えられている。そうだ、これがこの人の本質なのかもしれない。






 人なのか、鳥なのか。私の好きな烏天狗にも見える。それなりに経験値を重ねると、どんなものでも何かに似ていると感じる。何かに似ている、でもそれは何かなのかよく分からない。しかし、分からない何かを知ろうとする。それでいいのだ、それこそがいいのだ。



 大胆な決断。憂苦懊悩の果てにたどり着いた大いなる決断とでも言えそうな描画。精神的な画面に感じる。たぶん画家自身はそんなことなど思っていないだろうが、私は画家の潜在意識の問題だろうと思う。





 なんという美しい画面だろう。この引っ掻いた線は、これ以外の方法はない。断固として必然性がある線。種子のようにも見えるが、これは想像、創造、生命、自然、あらゆるものの始まりと宇宙だ。




  『子供』たしかに子供に見える。題名がなくても子供に見える。なぜだろう。子供、この不確かに永遠なるもの。子供は子供であり続けることができない。社会的な価値もまだなく、ただそこにいる。意味づけから離れて、ただそこに存在していることができるのは子供だけなのかもしれない。子供のレーゾンデートルは、子供という存在そのもの。タブララサなのか。哲学的な命題にどんどんはまって行く。



 これもいい作品だ。見ようによってさまざまに見えてくる。

  挑むような視線を感じる。




 形を描こうとしているが、どんどん形から離れて行く。描こうとしているから、そこからどうしようもなく離れて行く。それは「自由」だ。最初から自由があったわけではなく、苦悩から得られたもの。

 黒十字が見えるので、これは風景か。手前の三角はひとびとが暮らす屋根と見える。向こうに聳えているのは山。筑豊のボタ山にも見えるが、この感覚も筑豊というのを知っているから出来る判断。

 作品をよく具象と抽象と分けるが、そのようなことになんの意味があるのだろうか。全ては具象であり、全ては抽象だ。形を追求すれば追求するほど形から飛び出してしまう。世界は混沌としている。そこになんらかの形を見つけようとする。
 
 画家にとって、描くということは生きることそのものであったと思う。描くことが自分を救い出してくれる。現在のアート(あえてアートという言葉をつかえば)状況はどうであろうか。現代美術も、商業化され売買される。みなが売れるアーティストを目指し、メセナ活動という美しい誘惑もある。おしゃべりが得意で、自己PRが長けていて、アート業界を渡って行く。それを一概に否定するつもりはないが、私が思う美術とはベクトルの方向は異なっている。私が山本弘という画家に惹かれる理由でもある。
 生前ヒロポン中毒であったらしいが、当時ヒロポンは安価に薬局で売られていた。坂口安吾や織田作之助も中毒だったし、太宰治はパピナールだった。折口信夫はコカインだった。そんなことはどうでもいい、そんなことでこの人の価値は微塵もゆるがない。
 
 山本弘は1930年6月15日の生まれ、妙なことに私は昭和30年6月15日の生まれ。なんの意味もないが・・・。

2019年8月26日月曜日

8月の映画狂No.6





『米軍が最も恐れた男カメジロー不屈の生涯』

              監督:佐古忠彦   2019日本

 前作は2年前で、今作はその続きである。監督はTBSの「NEWS23」で筑紫哲也が亡くなるまでの10年間活動したサブキャスターでアナウンサー佐古忠彦。現在は報道局のプロデューサーのようだ。
 沖縄の政治家、瀬長亀次郎。徹底的にアメリカと日本政府に抵抗し、民主主義精神を貫き通した人間。沖縄の戦後史が浮き彫りにされる。そしていかに差別され続けてきたか。権力は暴走する、でっち上げられた罪で幾度も収監される。それでも絶対に屈しない。亀次郎の言葉に「小異を捨てずに、大同につく」がある。人ぞれぞれに思いがあるが、それを捨ててはならず、それを大切にしながら、大きな目的を共有し進めていかなければならない、ということ。ナレーションに「オール沖縄につながる」とあるが、まさにその通りだ。民主主義に左翼右翼の別はない、基本的人権の問題であるのだ。



2019年8月11日日曜日

8月の映画狂No.3




  Carmine  Street  Guitars     

                                                                     監督:ロン・マン    カナダ2018

  ニューヨークのカーマインストリート。ここにギター工房がある。店主のリック・ケリーは全て手作りでテレキャスを作っている。エレキギターの代名詞テレキャス。リックはニューヨークのあちこちから廃材としてでる木材を使う。古いBARのアルコールが染み込んだ木材や、傷だらけのもの、虫に喰われたもの、それらを使い傷などをそのまま活かして作るカスタマイズギターだ。世界のロックシーンを裏で支える職人はじつに謙虚だ。この街場の工房に、さまざまなトップミュージシャンが訪れる。家では騒音問題になるのでここで引かせて欲しい。ギターの調子が悪いので見てくれ。いいテレキャスを探している。そして誰もがリックのギターに惚れ惚れする。
 パティ・スミス バンドのギター レニー・ケイ、ボブ・ディラン バンドのチャーリー・セクストン、などなど気楽にやってくる。日常がエキサイティングだとも言えるし、彼らのごく普通の日常だとも言える。リックはいつも穏やかに彼ら彼女らと接する。ギターの古い傷は、人間の顔に刻まれたシワと同じで人生を語っているとポツリと言う。そして、絶滅寸前の木を使った楽器がもう作れないのは、農薬で害虫が強くなりすぎて木がダメになったのだともつぶやく。そのつぶやきが重く深い。この店は彼の母親ドロシーが事務を担当し、弟子の女の子シンディがひとり。カーマイン・ストリートがあるこの街は、いま建物の持ち主が家賃を吊り上げることができる法律がいくつもあるという。それで、古くから店をだしている人が合法的に追い出されるようになった。再開発が進んでいる。そんなこともうかがわせる場面もあった。「隣のビルが売り出されている。昔ジャクソン・ポロックが住んでいたところよ」とシンディが話したり、不動産屋に勤める青年がふらっと入ってきたり。ゆったりと時間が流れる場所。昔ここグリニッジビレッジ地区にはボヘミヤンが集っていた。詩人で活動家ギンズバーグや小説家バロウズ、そしてヒッピー。たくさんのビートニクジェネレーション。静かな感動が心に広がった。