2012年12月1日土曜日

ソハの地下水道


 
 監督:アグニェシュカ•ホランド  2011年ドイツ•ポーランド
1943年のポーランド。ナチスによるホロコーストの時代だ。水道修理工のレオポルド•ソハという男がいた。金にこだわる狡賢い男といった体だ。このあまりほめられたものではないソハが、何を思ってかユダヤ人を救うことになる。
 シンドラーなど、人格的にも立派な人はいる。しかし、このソハは、なんだかものすごく人間臭い。社会状況を思えば、たしかに賢く立ち振る舞わなければならない。そうしなければ自分の身も家族も危険になる。ソハは、ユダヤ人からお金をもらうのだが、徐々に何かに目覚めて行く。それは命の尊さと、不条理な支配だ。誰がどう思っても、やはり当時のナチスは非人道的な巨獣なのだ。わたしたちは、ことあるごとにこのことをしっかり学ばなければならない。と痛切に思った。いい作品だ。
 

気まぐれレシピ(あんかけ豆腐)



 さて、お豆腐が好きなので何かないかなあと思って作った。麻婆豆腐の気分じゃないので、違うものを。と考えて作った。
 画像がちょつとピンぼけかな。
 お豆腐は、大きめにして暖めておく。豚ひき肉を炒め、冷蔵庫に残っていたしめじを入れる。まあね、何か残りもので、いい感じの物を入れればいい、というわけだ。後は水、鶏ガラ、片栗粉。最後はもちろん小ネギをパラパラと。
 やつぱり、ビールがおいしい。

2012年11月12日月曜日

銀座2丁目のクネクネビル


 銀座2丁目にこんなビルがある。クネクネ波打っているビル。『デビアス銀座本店』だ。
 建築家は誰だと思い、検索してみたら光井純(みついじゅん1955年生まれ)である。建築家としては超famousな人物である。アメリカのイェール大学の院に留学した人である。もちろんイエール大学といえば、建築学部の学部長はシーザー•ペリであった。光井はペリに師事し、シーザー•ペリ&アソシエーツに勤務し、後にシーザー•ペリ&アソシエーツジャパンを設立した。そのときの建築が、東京国際空港第二旅客ターミナルビルや、国立国際美術館であろう。
 私事であるが、よく千葉県幕張のシネプレックス幕張に映画を観に行く。そのとき、映画館が入っているビルの向こうに、『aune幕張』というテナントビルがあるが、それが光井純の作品だった。とりたてて特異な作品ではない。また、浦安に『光井ガーデンホテルプラナ東京ベイ』というHOTELがある。そこにナチュラル•ローソンが入っていて、何回かローソン目当てに、そこに行った。どうやらそのHOTEも光井の作品のようだ。ちなみに銀座2丁目のこのビルは、デビアスだ。南アフリカの宝石関係の大企業。けっこうアパルトヘイトや、いろんな政治的な絡みがある企業。このような大きな仕事をする建築家は、純のみでは仕事が出来なのだろう。いろいろ調べているうちに自分自身が複雑な思いにとらわれることとなった。

2012年11月11日日曜日

気まぐれレシピ(うめぼし)


 なんていうこともない、ただ梅肉をトマトとお豆腐にかけただけのもの。うめぼしは、蜂蜜漬けのものなので甘い。かんたんな万能ダレといってもいい。ビールのおつまみに、5分もかからず出来てしまう。
 わたしのようなめんどくさがりには、けっこういい。

『点より•••』展2012


 さいたま市北浦和「アートプレイスK」でのグループ展(三人)の様子です。わたしは作品を送っただけで、展示はオーナーの近内さんにお任せしてしまいました。自分以外の誰かに完全に任せてしまうというのも、ひとつの方法だと考えました。わたしの場合は、かなりインスタレーション的な展示なので、これもコラボレーションのひとつです。

左の作品はパネル/右は綿布
 会期:2012年11月5日〜13日
   
サイズはS4号

2012年11月3日土曜日

声をかくす人

 ロバート•レッドフォード監督作品 2011アメリカ
 メアリー•サラット。アメリカ大統領リンカーン暗殺の共謀者として絞首刑にされた、最初の女性。実在の人物と事件を作品化したものである。自分が営む下宿屋に、犯人が頻繁に通っていたということで、軍法会議でさばかれた女性メアリー•サラット(ロビン•ライト)は息子をかばったためか、不当な裁判により合衆国最初の女性死刑囚として命を落とした。政府はとにかくこの事件の決着を早くすることが、国家の安全だとして動く。目的のためには、どのような方法も辞さない。元北軍の大佐フレデリック•エイキン(ジェームス•マカヴォイ)は、弁護士となり、メアリーを助けようとするが判決は死刑となる。これは、一生活者と国家との戦いである。「国家を立て直すためにには、憲法を無視してもいい」という検事の言葉があるが、これがアメリカの基盤をなす思想のように思えてしまう。このような作品をよく作ったものだと感心した。

vanpire


  岩井俊二脚本監督「vanpire」 2011年 アメリカ/カナダ/日本
8年ぶりの岩井俊二の作品。アメリカにいる岩井は、映画とどんな向き合い方をしているのだろうか。脚本も演出もすべて英語らしいのだが、ネイティブではない作家が、あえて母国語以外で作品を制作するというのは、何を意味しどんな創作上の策略があるのだろうか。
 ヴァンパイアの映画作品はたくさん作られてきた。また今もかたちをかえて作られ続けけいる。まぜかくも作られ続けているのだろうか、それも西欧において。血を吸うというのは、なんだろう。首筋から血を吸う様子は、たしかに性愛の様子を思い起こさせる。それをして「愛」などと評する論者がいるのは、理解はできる。しかし、ここまで続くヴァンパイア伝説は、どうも踏み込めない感じがしてならないのだが、さて岩井はどうしてヴァンパイアなのかという疑問もあり、渋谷の映画館まで出かけた。
 話は、自殺サイトの投稿者たちからなる。自殺をしたい若者がいる。これはリアルな現代社会の一部分だ。このサイトで集団自殺しようとする人々もいる。これは現実にそのような事件があった。またこれからもあるだろうと個人的には予測している。そこに自殺を手伝おうという人間があらわれる。作品の中では、サイモン(ケヴィン•セガーズ)という男、高校で生物を教えている。彼は自殺仲間として女性に近づく。そして、四肢から徐々に血を抜いて行く方法をとる。ゆっくりと血が抜けて行く、そしてたぶん意識が朦朧となり死に向かって行くのだろう。注射針をつかうので、傷は残らない。岩井は「自分のオブセッションをコントロールできない、リアルな人間の物語」と言う。もちろん、死に向かう者も、死について思う人も多く存在する。それは特別なことではなく、どこかでみな考えたことがあるはずだ。その意味では、この作品は普遍的なテーマを抱えているわけであり、ファンタジーではない。曇天のカナダの田舎町は静かである。感情の起伏が起こらず、どこか平坦に脈打つ心臓のようでもある。劇的なことはおこらず、ただ淡々と何かが過ぎて行く。時であるかもしれない。その延長線上に命があり、その終わりもある。
 血という物質がなければ人は生きられない。血とは何だろう。文学的にいろんなことを血に添付することもできるが、何かそういうことも岩井の意中にはなく、たくさんの問題を提起していることが、作品創作と思っているのかもしれない。そうすれば、作品制作の基本姿勢は私と同じかもしれない。

希望の国


 脚本:監督:園子温 2012 日/英国/台湾
もちろん、3•11が下敷きにあることはいうまでもないが、時は東日本大震災の後の長島県という架空の地域。3•11の数年後という設定は、いつでも第二第三の3•11は起こるのだということを暗示している。酪農家の小野泰彦(夏八木勲)は、痴呆症を抱えた妻智恵子(大谷直子)と、息子夫婦洋一(村上淳)いずみ(神楽坂恵)の四人暮らし。幸せな日常であった。そこに大地震が発生し、村の原発が事故を起こす。
 一瞬にして180度変化してしまうのは、破壊と汚染というフィジカルなものばかりではなく、人間関係や感情があっという間に非情な変化を見せてしまう。それは、人類がその歴史の中でいやと言うほど知らされて来たものではないだろうか。町•村•家族などの関係が壊れて行くのだ。村の役人は、最後に残った康彦と智恵子をなんとしても退避させようとする。それが彼らの仕事であり、国家から命令されたものである。しかし、ふたりは出ていこうとしない。自分が生まれ育った土地であり、たくさんの牛たちがいる生活の場である。思えば、あのテェルノブイリの事故で大量の放射線を浴びたベラルーシの老人達も、自分たちの土地から出て行かなかった。退避させようとする役場の若者は、逆に危険な場所に説得しに行かなければならないことに被害意識をもつようになる。この家族は自分の意識をしっかり持とうとする。しかしそれが周囲から差別される原因になってしまう。私たちは、このようなことを忘れてはいけない。何かを武力的なもので解決しようととすれば、そこには必ずと言っていいほど、のみこまれる普通の人々がでてくる。そしてそれは、ひとりふたりではなく何百何千という国民なのだ。この図式は過去現在そして未来にも続く。
 「希望の国」という題名は、皮肉に思える。たしかに明日への希望をつないで生きようとするヒトの意識は感じないわけではないが、これは希望のではない。個々の人々のまったく個人的な心の覚悟性にささえられた希望である。
 それにしても役者夏八木薫がいい。最初から最後まで、夏八木薫だ。わたしもこんな老人になりたいと思う。

2012年10月23日火曜日

情熱のピアニズム

  マイケル・ラドフォード監督作品 2011年 仏・独・伊

  あるJAZZピアニストのドキュメンタリー。その男の名はミシェル・ペトルチアーニ。1962年フランス出身。骨形成不全症という障害を持って生まれ、成人しても1メートル程度だった。生まれたときには、もうほとんどが骨折状態であったという。
  音楽家一家に生まれた彼は、幼少のときからピアノを弾き始めた。あっという間に高度なテクニックを身につけ、名のあるミュージシャンを驚かせた。18歳の若さでニューヨークのブルーノート・レコードと契約、脱兎のごとくJAZZ界を駆け抜けた36年の人生だった。陽気で破天荒、いまはペールラシェーズ墓地に静かに眠る。
  健常だとか障害だとか人はよく話題にする。ペトルチアーニが言うように、規格内であるなら健常で、規格外なら障害なのだろうか。体のサイズからなにから、われわれは規格内であることに安心するのかも知れない。ようするに圧倒的多数の中にいるということだ。
  小男である私にとって、いろいろ考えさせられる作品であった。もちろん、私はピアニストでもなく天才でもないのだが。

2012年10月21日日曜日

菖蒲

 
 アンジェイ•ワイダ監督作品。2099年/ポーランド。ポーランドの作家ヤロスワフ•イヴァシュィチの作品が題材になっているという。(この作家の作品を読んだことがないので、内容については不案内。)菖蒲というものはなんだろうか、作品のはじめのほうで、「死のにおいがする。」という台詞がある。原作の内容/その原作を撮影しているメイキングのような場面/主人公の実生活のモノローグ。このみっつの場面がモザイク模様のように組み合わされている。極めて文芸的な作品である。
 私なりにこの作品の感想をいうならば「虚実皮膜」という言葉が当てはまるように思う。主人公役のクリスティナ•ヤンダは実生活で夫を亡くしたばかりで、その夫の思いをひとりごちる。この場面は、「実」ということになる。映画作品は「虚」で撮影風景は、実と虚の派境に位置する。そのように考えると、この作品世界がよりリアルに感じることができる。内容は「生と死」人間にとって永遠のテーマだ。
 若い青年ボグシ(パヴェウ•シャイダ)が生の象徴であるが、溺れて死ぬ。主人公マルタ(クリスティナ•ヤンダ)は不治の病で一夏を越せるか、という状態。医師の夫が病気を発見するが、妻には知らせていない。マルタはこの青年と、人生最後のアバンチュールをしょうとするのだが••••。
 「生と死」ということを我々はよく言葉にする。しかし、みんな死を体験していないので、明解な回答を出すことができない。自分自身で覚悟を決めるしかない。「生と死は裏腹である」という言葉もよく耳にする。しかし、「生徒と死」というのは、字面のように、パラレルな感じではない。パラレルだというのは、あくまでも神の視点である、人にとっては、生の後に位置するのが死であり、この順番はけして逆転することはない。生から死を想像できるが、死から生を観ることはできないのだから。
 この作品をじっくりふりかえることにより、人としての味わいと謙虚さが滲み出てくるように思う。

若松孝二


 監督若松孝二が急逝した。新宿でタクシーにはねられたことが原因。若松監督といえば、反骨•反権力という言葉が浮かぶ。昔気質の映画人だ。社会派というよりも人間のドロドロした感情を作品化した人だと私は考えている。人間はさまざまな感情を持ち、その感情を持て余したり、他者との感情のなかで、自らが引き裂かれて行くこともある。若松孝二の作品に登場する人物は、みな考えあぐね、どんなに思慮しても解決できない袋小路でうごめいている。人間の業が重低音のように流れているので作品は文学的だ。
 わたしが好きな作品は、『エンドレス•ワルツ』(1995)だ。若松作品としては、『実録•連合赤軍あさま山荘への道程』(2008)や、『キャタピラー』(2010)を代表作としてあげる向きも多いが、この人はもとピンク映画の巨匠だった。その感じが『エンドレス•ワルツ』にあると思うのだが、どうだろうか。もちろん、フリーインプロビゼーションのジャズメン安部薫(町田町蔵)と作家鈴木いづみ(広田玲央名)のファンであることが、私の評価基準になっていることもあるだろう。
 潤沢な予算でテレビ会社などが作る映画作品などが多くなっているが、若松プロのような存在が日本映画のレベルを支えていると思う。残念だ。

2012年10月18日木曜日

ライク•サムワン•イン•ラブ


 アッバス•キアロスミ。イラン映画を初めて見たとき、監督はこのアッバス•キアロスミだった。『友だちのうちはどこ?』『そして人生はつづく』『オリーブの林をぬけて』などを観た。そして徐々にイランに興味を持ち始め、モフセン•マフマルバフや、アボルファズル•ジャリリなどの監督の作品を観るようになった。
 今回の作品は、日本の俳優をつかった日本での作品。キアロスタミは最近、母国を離れて作品を作っている。これは何を意味しているのだろうか。なんとなく想像はできるが、そんな想像をしてみても、なんだか空しさが残りそうに思うので、やめておくことにする。
 ひとり暮らし元教授タカシ(奥野匡)のところにデートクラブから紹介された女子大生明子(高梨臨)がやって来る。元教授は、どうやらその娘と食事やおしゃべりをしたい感じである。ところが、彼女がつきあっているという自動車修理工のノリアキ(加瀬亮)が現れることによって、話は複雑になって行く。明子はノリアキと手を切りたいと思っているのだが、ノリアキは強引に結婚を迫っている。元教授はお爺さんだと思われ、タカシもそれでいいと思って適当にやり過ごそうとするのだが、最後とんでもないことになる。
 人生は自分の思うようにはならない。誰もが知っているのだが、突如として極めて理不尽なことに巻き込まれてしまう。この作品は車の中や部屋の中という場面が多い。多いというかほとんどだ、といっても過言ではない。フロントガラスに映る外界と、車の中で話をする老人と明子。タクシー運転士と明子。マンションの三階から見える外の喧噪と孤独な老人。つねに外界と内界という二律によって世界が構成されている。タカシと明子がそれぞれいろんなことを抱えている。つまり内界はそれぞれに微妙な心の襞を織り込んで行くことができている。ところが外界は全く違い、容赦なく流れこんでくる異質なものである。ときには暴力的ですらある。ノリアキは暴力的外界の化身のような存在である。ラストシーンは衝撃的であった。
 
  おだやかな時間が流れているようであったが、結末は不気味だ。時代や国に翻弄されてきたキアロスタミならではの感覚かもしれない。いつだってどこだって衝撃的なことは起こりうる。イタリアで作った作品、『トスカーナの恋』にも感じたが、この監督の世界観は、普遍的だ。

2012年10月9日火曜日

新しい靴を買わなくちゃ


2012/10/8 休日。いよいよ秋らしく、朝のヒンヤリした空気が身体に快い。半袖にジャケットを羽織って目的もなく出かけてみるのもいいかもしれない。
 昨日の夕方、「新しい靴を買わなくちゃ」を観た。
監督:脚本は北川悦吏子、恋愛物語の神様と言われる。もともとはTVドラマの脚本家で「愛してくれといってくれ」(TBS)は、なかなかの秀作であった。
キャストが中山美穂と向井理なので、いかにも話題をつくるキャスティングと思ったが、そんな不安な気持ちを見事に解消してくれた。
 「ビーカーの中に入れた毬藻を秋の青空に透かして見たような作品」である。
 プロデューサーが岩井俊二、音楽監督が坂本龍一。このふたりのアーティストの仕事がかなりあるように思え、映像的にも音楽的にもきわめて芸術的な作品になっている。なんといってもパリ市街がいい。パリをこのように美しく撮影できるのは、日本人アーティストしかいないだろう。パリは平行線で撮ったらいけない。上から見るか、下から見るか、のどちらかだ。日本から来たセン(向井理)を撮っている時、カメラは小津安二郎のようなローアングルで映している。それは、背景を美しく映す方法でもあるように思える。市街の建物の上に空がある。空をスクリーンの六分の一程度にすると、アパルトマンの屋根の形状が映し出される。それがためには、場所によってはローアングルでカメラを回す必要が出て来る。
 この作品に生活感のある細かいリアリティはいらない。そうするとこの作品のいい部分が壊されてしまう。画面にたいする細かい注意は必要であろう。
 撮影は2012の3月らしい。私が渡仏した一ヶ月ほど前だ。
 

2012年10月7日日曜日

気まぐれレシピ(パスタ、その1)


 さて、こんなばかみたいな内容も。まあ、いいか。と、自分をすぐゆるしてしまう。しかし、これを続けるためには、克己心を持っていどんで行かなければなるまいて。

 「パスタ、shinちゃんスペシャル1」

 パスタは市販のものを茹でる。もちろん塩とオリーブオイルを少量いれたお湯である。
茹でているあいだに、なすを輪切り、ピーマンを短冊切り、鷹の爪の種をとって細かく切り、トマトを乱切り、ニンニクをみじん切り。
 フライパン(合羽橋で買ったアルミのもの)にオリーブオイルとニンニクを入れ、火にかける。香りがしてきたら、鷹の爪、なす、ピーマン、トマトの順で入れる。塩こしょうを少量投入。パスタがゆであがったら、お湯を切りすばやくフライパンへ。味を整えるため、固形の鶏ガラスープの素を小さじ一杯程度(量にもよるので、あくまでも適当。えっ、鶏ガラかよ!なんて思う。)
 鷹の爪の量によって、けっこうピリ辛なので身体にいいかんじがする。トマトの酸味もなかなかのもの。

2012年10月6日土曜日

そして友よ、静かに死ね


 20011/フランス 監督:脚本 オリヴィエ•マルシャル
 エドモン•ヴィダルという実在のギャングがいた。フランスの伝説的ギャング集団「リヨンの男たち」のリーダーだった。そして監督は以前警察官だった。
 ヴイダルは銀行強盗だったが、出所後悪の道から引退し幸せに暮らしていた。しかし、そんな彼の生活を揺るがす事件が起こり•••••。
 日本風に言えば、義理人情、任侠、という世界か。モモン(エドモン)は人の道を外れようとしない。その人の道とは、仲間を裏切らない。友を信用する。ということである。寡黙でよけいなことを言わないモモンは魅力的だ。自分の感情を表に現すことなく、言葉をのみこみ、グッと奥歯を噛み締めている。モモン役のジェラール•ランヴァンがいい。これこそ燻し銀の魅力だ。回想の場面に登場するシトロエンDSは魅力的だ。1955年発表された、フランスの前輪駆動大型車である。ド•ゴール大統領など政府官僚の公用車として利用された。もちろんギャングも頻繁に利用した。思えば、子供の頃の私にとって、フランスといえば、「シトロエン」だった。

傾城阿波の鳴門/冥途の飛脚


 東京国立劇場小劇場第180回文楽公演 平成二十四年九月
 門左衛門に私淑し、自ら近松半二と名乗った穂積成章の『傾城阿波の鳴門』という作品。阿波徳島に置いてきた自分の娘にてをかけてしまう、という話。文楽にはこのような話がよくある。おそらく当時の人々は、そのような話に涙し、人の世のはかなさを感じたのだろう。
 『冥途の飛脚』は、ご存知近松門左衛門の作品。淡路町の飛脚屋亀谷の忠兵衛が、遊女梅川を身請けしようと、店の金に手をつけてしまう。そんなところに粋な男、丹波屋八右衛門がいろんな方法で手をさしのべようとするが、忠兵衛にはなかなかわからない。「傾城に誠無し」といわれるように、八右衛門はなんとか梅川から手を引かせて、きちんとした商売人に戻そうとするが、とうとう諦める。そして、忠兵衛と梅川は、手に手を取って逃げるのだった。
 梅川(人形:桐竹堪十郎)忠兵衛(人形:吉田和生)がとてもいい。心の細かな揺れを見事に表現している。前髪がぷるぷる震えるところに、やはり繊細な感情が映し出されて行く。
 

 

ANTI anti anti H的立場


 反日の嵐が吹き荒れている(かもしれない)。正しくは、「反日感情」(anti-Japanese feeling)。つまり感情なのだ。デモの様子を報道で見ていると、まさに感情がむきだしだ。感情と感情がぶつかると、争いが起こる。すべての戦争は、この感情から起こったに違いない。お偉いさんが「話し合いで」と言ったところで、有史以来領土問題が「話し合い」で解決したことがあるのだろうか。かといって、「国際的な裁判」?。世界に共通する法律があるのだろうか。近代国家は近代兵器と軍事国家を生んだ。
 デモ隊の中に、毛沢東の写真を持つ人々がいる。「なぜ?」と単純な疑問がわき起こった。現代では毛沢東批判が多いのに。毛沢東は、「金持ちから奪って人民に広く分配した」ことになっているはず。そして共産主義になったはず。「人民の海の中に溺れ死ぬだろう」と言ったのは毛沢東。毛主席の写真を掲げていた人たちは、貧富のことを考えていたのではないだろうか、と思ってしまう。いずれにしても一括りで判断することはできない。しかし、報道はデモの最前列しか映し出さないし、原発反対のデモは報道しないで、ひたすら反日デモをこれでもかこれでもかというように流して、恐怖心を煽っているとしか思えない。

2012年9月30日日曜日

最強のふたり



 『最強のふたり』2011/FRANCE  監督:脚本 エリック•トレダノ/オリビエ•ナカシュ
元気が出る作品。深い悲しみと寂しさが裏打ちとなればこそ、このような元気が現れるのだろう。人はみな何かしら悲しく悲痛な思いを抱えている。
 いきなりイタリアの高級スポーツカーマセラティの疾走場面からはじまる。じつは最後の場面でもあるのだが、この痛快さがこの作品の底に流れている。障害を持った大富豪フィリップ(フランソワ•クリュゼ)も介護人ドリス(オマール•シー)もチャーミングだ。スラム街で生きてきた黒人ドリス、重度の障害を持ったフィリップ。このふたりはけして自暴自棄になることなく、何かあるとすぐジョークを飛ばす。このジョークがいい。この世のほとんどはジョークを飛ばせばなんとかなる、とでも言わんばかりである。ユーモアとペーソス。男の友情。雪のパリから透けて見えるのは、心温まる哀愁のメロディーだ。

2012年9月22日土曜日

憂鬱な思想


 記録的な残暑もやわらぎ、少しばかりひんやりとした空気が心地よい。日常が極めて忙しくせわしなく時間が過ぎて行く。そんなときに時として心のエアポケットにカクンと落ちてしまうことがある。
 あいもかわらず、自分とは人間とはこの世界とはという堂々巡りの考えにとらわれてしまう。さまざまのことや、ものに縛られている自分を感じる。人間はなぜ人間になったのだろう。人間は人間になろうとしてここまで来た。しかしそれがいったいなんだろう。確かにすべてを意味論でとらえてはいけない。さまざまなことに意味を見いだし、その意味づけによって安心しようとする。しかし世界は規則正しい意味によって成立しているわけではない。人間存在もしかり。
 こんなときには旅に出たいものだ。巡礼の旅でもいい。できれば言葉が通じないところがいいかもしれない。

 ツレから言われた「君は悩むのが似合っている」

2012年9月19日水曜日

鍵泥棒のメソッド


 内田けんじ脚本監督の『鍵泥棒のメソッド』を観た。さすがだ。『運命じゃない(2005)』も作りがしっかりしていて、丁寧な作品だと思ったが、今回もその期待を裏切ることはなかった。堺雅人•香川照之のコンビがなかなかいい。その他荒川良々もいい味を出している。作品が小気味好く展開して行くのは、プロットがしっかりしているからなのだろう。貧乏な役者のたまごと、裏社会に生きる男が織りなす都会の喜劇。どこかノスタルジックな雰囲気もある少しおしゃれな作品だった。

2012年9月16日日曜日

イラン式料理本


 15日の土曜日、岩波ホールで『イラン式料理本』を観た。監督モハマド•シルワーニの作品は、ほとんど故国イランでは上映されないという。この作品も上映禁止となっている。いったいどんなところが禁止条項に触れるのだろうか、作品はじつにほのぼのとしているのに。
 一所懸命にご飯をつくっても、それが夫に理解されなかったりする監督の妹や、義母。食事の準備時間が何時間にもわたる。しかし、彼女たちはとてもたくましい。と思っていると、監督の奥さんは、もうどうでもいいという性格。考え方や行動が近代的である。もちろんこの作品に底流しているものは、女性差別であるが、この差別感は世界中が共有しているものだろう。とても明るく、キュートな作品なのだが、考えさせられるところは多い。
 それにしても、岩波ホールはいつも高齢者が多い。たしかに岩波というの、知的ブランドだった。とくに全共闘世代の前後にとっては。
 映画が終わって、地下のイタリアンで昼食。パスタと白ワイン。

2012年9月9日日曜日

邦画二本


 休日の日曜日、テアトル新宿に行く。『かぞくのくに』と『I'M  FLASH!』の二本を立て続けに見る。新宿サブナード地下街であらかじめ前売り券を買い求めて行く。
 『かぞくのくに』は「北朝鮮に移住した息子が、病気治療のため一時帰国する」という話。これは重いテーマだ。しかし、とても重要な作品である。おそらくそんなに観客動員は出来なかったのではないだろうか、朝の一回だけの上映である。私たちは、このことをもっときちんと知らなければならない。
 『I'M  FLASH!』はある宗教団体の話。若いカリスマ教祖がまきおこす精神的苦悩。藤原竜也が教祖役だが、なかなかいい。用心棒役に松田龍平、「竜と龍」というのは偶然ですかね。ラストシーンは洋上で龍平に竜也が撃たれるというシーンなのだが、ほんとうに撃たれたかどうかは、作品の上で明らかにされていない。
 映画が終わり、午後の2時半ぐらいだったので、少し散歩をした。青梅街道を歩いて淀橋から川沿いにすこし行く。途中に『新宿国都ビル』という古びた小さなビルがあった。都庁の近く、右翼の大物慎太郎閣下が喜びそうなネーミングである。なかなか川がきれいだった。新宿区と中野区の境に淀橋がある。中野区本町1丁目に通りかかったら、思わぬところに東京工芸大学があった。前身は、小西写真学校である。あの小西六写真工業である。カメラの小西六だ。「サクラカラー」というフィルムは愛用した人が多くいたはずだ。いまはコニカミノルタになり、カメラ業界から撤退。企業も大学も時代に翻弄される。アニメーション学科やマンガ学科やゲーム学科も作っている。なんだかねえ〜という感じがしてならない。この大学をぐるっと一回りして路地に入ると、『クラブ湯』なんていう銭湯に出会う。早風呂のおじさんが出てきた。と思ったら、おばさん連がそれぞれやってきて、「あれ、今日は遅いねえ〜」なんて話している。私もこの銭湯に入りたくなった。
 そんなこんなで、東中野までたどりつき、総武線各駅電車で帰宅の途についた。
 

2012年9月8日土曜日

満腹食堂


 朝、有楽町のガード下『満腹食堂』に行って399円のマグロ丼を食べようと思った。
久しぶりの『満腹食堂』だったが、なんと本日土曜日。残念ながら土曜日日曜日は格安朝定食はやっていないことに気づいた。おっさん曰く「あー今日は土曜日だから高くなっちゃうよ。」「あっそうだね、じゃあまた後で来るよ。」と言って、目的の角川シネマ有楽町に入る。角川シネマは階下のビックカメラのカードを見せると、1300円で見ることができる。でも今日はあらかじめオンラインで席を予約しておいたので、割引は無し。休日は混雑しているかもしれないと思ったからだ。
 映画作品は『ボブ•マーリー/ルーツ•オブ•レジェンド』だ。レゲエの神様、キングオブキング。この人もすごい人だなあと感心するばかり。映画が終わり、結局『満腹食堂』に行って、生ビールと刺身定食でお昼をとる。午後は少し画廊回りをした。それにしても2012年の九月、まだまだ残暑。やはり残暑はイヤザンショ。

2012年7月16日月曜日

クレイジーホース•パリ

監督:フレデリック•ワイズマン      2011 フランス/アメリカ

 パリの夜、眩い娯楽。ナイトスポット「ムーランルージュ」「リド」そして「クレイジーホース」だ。映画作品「バーレスク」や「ナイン」など観たが、これもまたなんと美しいことだろうか。もちろんその美しさを作り出すには、たくさんのプロたちの不断の努力と才能が必要である。この極めて芸術的であり高貴とも言えるパリのキャバレー文化というものはとてつもないものだと思う。


ぼくたちのムッシュ•ラザール

原作:エヴリン•ド•ラ•シュヌリエール  監督脚本:フィリップ•ファラルドー
                   2011 カナダ/フランス

 テーマは重い。しかし、なんとも穏やかでゆるやかな時間の流れなのだろう。カナダのケベック州にある小学校の女性担任が、自分のクラスで縊死自殺をする。牛乳当番のシモン(エミリアン•ネロン)は朝早くだれもいない教室に入ろうとし、その姿を見てしまう。
学校は、ひたすらカウンセラーに子供たちをまかせ、事実にふれないようにふれないようにする。そこへ新聞記事を読んだバシール•ラザール(フェラグ)が代用教員として採用して欲しいとやってくる。出身はアルジェリアで今はカナダの永住者であるという。
 考えも教育方法も古くさいラザール。しかし、この男は地獄の苦しみを経験していたのだ。こどもたちとのさまざまな葛藤。こどもたちもまたさまざまに苦しんでいる。しかし、雪のケベック州は陰影の強い光がないように、なんとなく落ち着いた陽光であり、そしてむやみに暗くもない。雪がたんたんと舞い落ちるように、物語は静かに流れて行く。
ラザールの心が、ゆるやかにこどもたちに届いて行く。実は、ラザールは永住者ではなく、移民申請をしている最中だった。妻は教師をしていて、その発言がテロリストに狙われアルジェリアで妻子を殺されてしまったのだ。おそらくラザールが教師をする理由は、妻の仕事をたどってみたいという気持ちだったのかもしれない。

 ラザールはクラスの親から素性を調べられ、去らなければならなくなってしまう。とくにラストシーンは感動的だ。心に残るラザールの台詞がある。

 「教室で自殺するのは暴力だ」「頭からその先生の姿が消えないというのは、愛していたからであり、愛されていたからだ」「最後の授業をさせてくれ、何も言わないでいなくなるのは自殺と同じことだ」

 面白い場面があった。鞄を持って帰って行くラザールの背中に紙で作られた魚が貼付けられていた。おそらくこどもたちの誰かが、こっそり貼付けたものだったにちがいない。
 「Poisson davril(ポワソンダブリル)」フランスのエイプリルフールの習慣だ。つまり、「嘘つき」ということだろう。 

星の旅人たち

監督•脚本 エミリオ•エステヴェス    2010/アメリカ•スペイン

  聖地サンティアゴ•デ•コンポステーラへの巡礼の物語。トム(マーティン•シーン)は60歳を過ぎた眼科医。ダニエルという息子がいたが、彼は大学院博士課程を中途でやめて巡礼に出ると行って去った。世界を学びたいという。しかし、ある日フランスの警察からダニエルの死を知らせる電話がある。息子の考えがわからないまま別れたトムは、この世から去った息子の確認のため、スペイン国境沿いにあるフランスの町を訪れる。不慮に事故で亡くなった息子ダニエルの心を知りたいという思いに駆られ、その意志を継ごうと遺品のリュックを背負い巡礼の旅に出るのだった。
人はみなそれぞれに事情を抱えている。そんな人々が自然に集まってくる。息子ダニエルの「人は人生を選べない、ただ生きるだけだ」という言葉が印象的だった。「巡礼」とは自己慰安の旅のことかもしれない。きっかけは、仏であってもいい。神であってもいい。予言者であってもいい。たぶん自分自身の心の奥底に、すべてを超越した何かがあるのだ。

爺とスマホ

 
 iphoneが動かない。なんでかなと思いつつ指をなめて動かす。つくづくジジイになったものだと気づかされる。とくに紙類の整理などした後は、指がかさかさになっているので、スマホの画面にタッチしても動かないことが多い。つまりこれは何を意味しているのだろうか。タッチパネルは、指の油分などが反応して動くもののようだ。かさかさの指だと、そこに生体反応がないので作動しないということなのかもしれない。
 いい具合に枯れて、好々爺になるとタッチパネルが反応しないという状態が訪れる。最先端の科学機器を作動させるために、指をなめる。なんという皮肉なことか。iphoneに本を入れて読んでいるときに、指をなめてページを捲っている。やっていることは昔と変わらない。脂ぎった若者や欲望ギドギドのおやじの方が、タッチパネルには適しているのだろうか。

2012年7月2日月曜日

描画漫録 5(パリでの批評文)



パリでの批評文を書いてくれた、ダニエル•ソダノさんです。
(右)

左は私です。










Shin HANADA
Les œuvres de Shin Hanada évoquent ce monde fluide, le monde de nos origines où des bulles éphémères dessinent un horizon de rêve et nous rappellent que toute vie est née de l’eau. 
Shin Hanada saisit cet instant fugitif où la vie émerge des profondeurs, où naissent et se multiplient les premières cellules à l'origine de toute la création. Il nous présente un monde silencieux et harmonieux qui dévoile les couleurs et les formes d’un temps oublié, lorsque nous abordions les rivages du monde. Ce monde en mouvement se renouvelle sans cesse et nous délivre de la solitude de l’être car comme le notait , c'est en se tenant assez longtemps à la surface irisée que nous comprendrons le prix de la profondeur.
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Mark L'Eau et les Rêves, Gaston Bachelard, éd. José Corti, 1942, p. 16
Daniel SODANO   mars 2012
花田伸
花田伸の作品は、夢の地平線を描き、全ての生命は水から誕生したことを思い起こさせ、儚い泡のような私達の起源という流動的な世界を感じる。花田伸は全ての創造物の起源は最初の細胞から無数に分裂して誕生し、出現した生命がつかの間の瞬間である事を知っている。彼は私達が世界の岸にたどり着くまでの忘れられた時間の色彩と形態を出現させ、静寂と調和のある世界を見せる。この動きがある世界は、終わることなく新しい変化を見せ、Gaston Bachelard(ガストン バシュラール)が記述したように、存在という孤独から私達を解放し、真の価値を理解すると言うことは虹色に輝く地表に長い間、留まると言う事でもある。
1 水と夢、ガストン バシュラール ジョセ コルチ出版、194216ページ
ダニエル ソダノ 20123

2012年5月20日日曜日

描画漫録 4(パリ個展Galerie SATELLITE 2)

  パリの個展の様子です。題名は、すべて「UTUROHI」「UTAKATA」です。
 「UTUROHI」は古語であり、記述すると、「うつろひ」となり、「ひ」は歴史的仮名遣いとなります。したがって、現代日本語で発音するときには「うつろい」です。ロマン語であるフランス語やイタリア語では「H」のアルファベは無音なので、現地では「UTUROI」と読むのかも知れません。歴史的仮名遣いを現代仮名遣いで読むのと同じになります。そんなことを面白がっています。「UTAKATA」はいかにも母音だらけで、日本語らしい音です。思えば私の名「HANADA」も、やっかいです。「A」が、三つもあります。「アナダ」と発音されるのは、すこし抵抗があります。やはりファーストネーム「SHIN」がいいのでしょうか。


小さな作品の組み合わせです。昨年からこのような作品を制作しています。下の方を少しずらしています。「ずらす」とか「ずれる」という事象が気になっています。「ZURE」ということが、キーワードとなることが、この世界にはたくさんあると考えています。 

ギャラリーからの風景です。ギャラリーは「フランソワ•ド•ヌフシャトー」という通りに面しています。通りの名前は、人物名です。この人がどんな人かはわかりません。検索してみると、フランスの貴族/政治家(ニコラ•フランソワ•ド•ヌフシャトー)という人でしょうか?あっ、左にワインのボックスが映ってしまいました。フランスはワインの国です。


ギャラリーの目の前に大きな建物があります。なにかしら重々しい感じのする建物です。体育館施設として利用されたり、イベント施設として利用されているようです。しかし、ここは歴史的な場所でもあります。建物にこのような案内版が掲げられていました。なんと書いてあるのでしょうか。辞書を引き引きして調べました。
「たくさんの子供たちや大人たちがここ11区に集められた。1941年8月20日、1942年7月16日。その夏の日、アウシュビッツにユダヤ教徒であることを白状するために送られた。」というような内容だと思います。このように、きちんと負の遺産を説明していることに、フランスの良心を感じます。この重々しい建物と、わたしの作品がどのように対峙しているのか、作品は空間の中で存在しているので、道を隔てたこの建物と相対的な関係も出てくると思います。そのうえで、私の作品の存在意味は何なのだろうと考えていました。






通りから見たギャラリーです。


  Galerie SATELLITE 2























2012年5月12日土曜日

描画漫録 3


パリでの個展が終了。4月17日に渡仏し、会期途中であったが26日に帰国した。ヨーロッパもパリも初めてのこと。観光旅行の経験もない。この歳になり、いい体験をさせてもらった。無、移ろい、瞬間の現象、虚と実の狭間、などが私の創作テーマとなっているが、それをヨーロッパの人に受け入れられるのだろうかという不安はあった。しかし、そんなことは杞憂にすぎないのだとすぐに理解した。空間として見てくれるような気がした。
課題はたくさんみつかった。むかし藍画廊やモリスや山口で展示した方法論を、いまもう一度再考する必要があるようだ。
パリの街で人類のことを考えていた。そして、この圧倒的芸術の数々は何だろうと思った。もちろん歴史的な権力と財力と武力によって集められたものだろうが、芸術にとてつもない価値を見いだしていたからこそである。翻って、日本の美術が海外に流失したことも考えてみると、なんとも悲しい想いにとらわれる。

2012年3月21日水曜日

描画漫録 2

  パリに持って行く作品を作っている。我ながら、自分の方法についての厳しさを感じている。ひとつとして同じ作品はうまれない。もちろん版画以外の作品は基本的に同じものはない。私の場合は、つねに自分の意図をはなれて作品が動き出す。「たまたま?偶然?さまざまな諸事情?」そんなものではない。私は私自身の作品が立ち現れてくることを、人間の手を離れた「智の結晶」であると考えている。私は、作品にたいして「きっかけ」を与えているに過ぎない。だからこそ現れた作品から、私自身がなにかを得ることができるのだ。作品は頭と技術だけで創造するものではない。自己の存在とインテリジェントデザインとでも言うべき、世界の何かが複雑に関わり合うことで、表出してくるものである。したがって、作品が失敗だということは基本的にはあり得ない。自分が気に入るか気に入らないかというこちら側の感想であり、もしかすると異なった世界では失敗ではないのかもしれない。

2012年3月5日月曜日

描画漫録 1

 また作品の準備をしなけれればならない。S4号のキャンバスを張り、下地の白を塗りはじめた。作品作りには、必ずこの作業がある。そして、意外とこの作業が大切だ。この段階でいいかげんなことをすると、やはり作品に大きく影響が出てくる。媒体の準備段階から気が抜けない。しかし、この作業が身体にとって心地よい。自分が完全に職人になって行くことが感じられるからだ。うまくいくのもうまくいかないのもすべて自分自身の責任だ。すべては自分の技術にかかわっている。刷毛の毛が残っていないだろうか、むらは出ていないだろうか。そんなことを気にしながら、塗って行く。私のキャンバスは表面がつるっとしていてはいけない。ある程度の凹凸が必要だ。その凹凸が水をせき止めてくれたりする。したがって、下地があらかじめ塗られている既製のものではうまくいかない。綿キャンバスに自分で丁寧に塗って行く。作品製作の段階に入ると、自分以外の何者かがやってくる。あるときは神で、あるときはデモーニッシュなものだったりする。

2012年3月4日日曜日

ポロック

『生誕100年 ジャクソン•ポロック』 2012年2月10日〜5月6日 
                             東京国立近代美術館

 ジャクソン•ポロック(1912〜1956)の人生は劇的だ。飲酒による自動車事故で命を落とす。享年44歳。作品に立ち向かう苦悩の様相が印象深い。代表的な作品以外では、批判する批評家も少なくはない。しかし、ポロックの実践した作品というのは、美術史的にも大きな意味を持つ。作品追求のなかで、あの『Number 11,1949』『Untitled』(1949) 『Mural on Indian Red Ground』(1950)が生まれたのだ。空間恐怖とも思われるほど、何層にも何層にもドロッピングで色を落としてゆくオールオーバーの絵画。それは、まさにアクションペインティングでもある。自らの技術を信じて作品に立ち向かう作家もいれば、ポロックのように、ある行為の果てに作品が生まれる作家もいる。ポロックは孤高な求道者であった。
 アトリエの床を再現した企画もあり、興味深かった。

ニーチェの馬

 監督•脚本 タル•ベーラ 2011年ハンガリー/フランス/スイス/ドイツ
 原題『トリノの馬』。荒れ狂う風の中を荷馬車が進む。むち打つ農夫は右腕が効かないらしい。男は娘と暮らしているが、その生活はどこから得ているのだろうか。ただただ風が吹くだけの貧しい土地で、農夫はジャガイモ一個しか食べない。毎日毎日ジャガイモ一個だけだ。井戸から水をくみ、ジャガイモで暮らす。ただそれだけの毎日。ある日馬は働くことをやめ、食べることを拒否する。ならず者らしい集団が一度訪れるが、すぐに去って行く。こんなところではもう生きていけないと悟り、男と娘は馬を連れて出ていこうとするが、また戻って来る。そして何も言わず再びそこで生きようとする。井戸は干上がってしまったのだが。
 モノクロームの154分は、あっという間に過ぎ去った。淡々とこの男と娘を映しているだけの作品。何も起こらない。しかし、人間や世界というものを深く考えて行くと、この作品の持つすごさが伝わってくる。これは、一冊の古い哲学書を読んでいるような気がするな、と思っていると、ならず者たちがやって来て、娘に一冊の本を渡す場面が出て来る。なるほど、これがこの作品の本質なのだ。タル•ベーラは154分の哲学書を提示したのだ。この親子はどのようにして終末をむかえるのだろうか。この作品は終末論である。思えば、あのチェルノブイリの事故があり、避難できなかった村人がいた。あるいは、自らの意志で留まった村人がいた。福島の事故があった。生活したその場所に戻りたいという人々がいる。危険な場所であるとわかっていても、そこに戻りそこで最後をむかえたいと思う人はいる。そこで生活をするというのは、そこで最後をむかえるということでもある。地球上の民のほとんどは古来そのようにして生きてきた。この作品の男と娘は、いったん出て行こうとしたが、すぐに戻って来る。この物語は、とても意味深く思慮深い。
 それにしても、「またもやニーチェなのか」という感想を持つ。日本人にとってニーチェほど身近な哲学者はいないだろう。しかし、ニーチェほど日本人から遠い哲学者はいないだろう。なぜ私たちはニーチェが気になるのだろう。

2012年3月2日金曜日

田中慎弥現象

     2012年下半期の芥川賞が田中慎弥の『共食い』に決まり、その授賞のコメントが話題になった。ふてくされた様子に辛辣な物言い。とくに都知事閣下と慇懃にさげすんだ発言が、ある人たちの喝采を浴びたように感じた。私自身は、このことに関して「出版元との共同作戦」かなと穿った見方をしたのだが、それにしても勇気があると言えばそう言える。その後本人自身が、東京新聞紙上で「都知事に対して批判的な人たちが、自分を通して批判を言わせたいように感じている」というコメントをしていた。作家としての分析力はある人だなと感じた。
    さて、最近とみに「純文学」なるものに興味がわかない。だいたい「純文学」は「純喫茶」と同じように、なんとなく懐かしい、あるいはレトロなにおいを感じさせる。もはやそのような枠組みは解体していると感じている。低迷している文学市場において、今回の騒ぎが25万部の発行部数を超えたらしい。作品より先行して一連の騒動が発行部数を伸ばしたのだろうと思う。かく言う私も実はそのひとりである。最初は、図書館で借りて読めばいいと思っていた。インターネットでこの本を検索していたら、表紙が気になった。それは野見山暁治の作品らしい。俄然興味が湧いてきた。書店に行き、早速手に取ってみたところ、はやり野見山暁治の1995年のシルクスクリーン作品『誰もいない』であった。そして、装丁は菊地信義。美しい本だ。〈青と白〉を基調にした本。青はこの作品に登場する「川?」などと思ったが、それでは青とこの作品中の川はあまりにも乖離している。「見返り」は青の紙にエンボスがかかっている風に白い雨だれがオールオーバーに印刷されている。「はなぎれ」は青のドットに白を乗せて二重になっている。各ページの「ノンブル」が微妙にポイントを変えたり、位置をずらしたりしている。誠に心憎く美しい本だ。
   本としては極めて美しい。では、やはり作品は、ということになる。いろんな騒ぎは騒ぎとしてやがて忘れられて行くだろう。作家は社会運動家ではなく、TVタレントでもない。キャラで勝負するわけにはいかない。小説家として、その作品を問われ続けて行くのだ。題材は「性と暴力」。なるほどそこに行くか。地方に住む父親と息子の忌まわしい血の問題。性と暴力でつながった血。すると、中上健次の作品世界を思い起こす人も少なくはないだろう。そんな文学の流れの延長線上にあることはまちがいがない。つまり、日本の純文学に底流するひとつの方向性だ。あっと驚くような斬新なものではない。いままで先人が追ってきたものを、この作家も等しく追っている。確かにまとまりもよく完成度も高い。私としては、それはそれとして、日本文学の世界においてこの方向性はまだまだ続くのか、というある種の諦念にも似たものを感じざるを得ない。「性、血、暴力」でなければ描けないものがあるのだろうか。もちろんこの作品だけで判断するわけにもいかず、他の作品を読んではいないので、こんな感想は作者に失礼かも知れないのだが、(純)粋に作品論ということに限って言えば、そんな感想を持つ。

2012年3月1日木曜日

「凪」の音と「荒れ」の音

 沖縄の三線と津軽の三味線について考えていた。ルーツを同じくする三味線であるが、その音色と奏法が見事に対極にあるように感じていた。なんべんもなんべんも聴いてきた三線の音色。自分自身でも少し弾いてみたりもする。
 沖縄のラジヲ放送を聴いていたときのことである。フッ、といままで思ってきたことに自分なりの結論づけができた。それが「凪」と「荒れ」である。三線の曲が、短いフレーズでくり返され、それで歌者が語るように歌う。このくり返しの音曲が、思いの外多いのである。琉球の浜辺に打ち寄せる穏やかな波を私は思い描いたのである。くり返しくり返し打ち寄せる波を、三線で表現するとこのようになるのではないかと思った。それも凪の波である。そんな浜辺で琉球の民は、はるか海の向こう、ニライカナイに向けて語って来たのではないだろうか。もちろん、「沖縄は台風の通り道だから、そんな凪いでばかりではない。むしろ荒れているときのほうが多いんじゃないか。」という反論はあるだろう。しかし、台風は危険であるので、琉球ではみんな屋内にとどまって、台風が通りすぎるのをひたすら待っている。台風一過のときほど空は晴れ上がり、海は美しく輝いているだろう。と思えば、台風の数ほどその後の海の美しさもあるのではないだろうか。浜に出て奏でる三線は、おのずとその自然と溶け合うようになる。
 では、北東北の極にある津軽三味線の曲はどうだろう。棹の先から根元にいたるまで使った荒れ狂うほどの曲ではないだろうか。そしてもちろんこれは台風ではなく、年がら年中荒れている海である。生活するためにはその荒れ狂う海と共生しなければならず、雪に閉ざされた冬も長い。自然と対峙して行く姿がそこに現れているように思えるのである。
どちらも、貧しい人々であったに違いない。

2012年2月28日火曜日

風にそよぐ草


アラン・レネ監督 2009年・仏=伊合作 『風にそよぐ風』

 しゃれたフランス映画と思っていると、なんだかわからない。独身の歯科女医と初老の男性の奇妙な話だ。設定やストーリーの流れだけをたどっていると、「これはいったい何なんだ」という感情が湧き起こってくる。たまたま追いはぎにバックを盗られた女性の身分証名書が、地下駐車場に捨てられてあった。それを拾った初老の男が、写真を見て恋してしまう。ということからはじまる。男は執拗にこの女性に電話をかけたりする。ストーカー擬、いやストーカーそのものだ。
 では、この作品をどのように見ればいいのだろうか。物語をたどって、なにかしらの解決を手に入れるということを考えると、これほどつまらないことはない。では何なのか、この作品は、いろんな要素が散りばめられている。そのちりばめられたひとつひとつが、大切なのだ。パフェのように、食べる部分部分によって味わいが違ってくる。【男性は初老の紳士・家の仕事をよくこなしている・失業者のようだ・強い男性原理・まっすぐに向かうことができる・優順普段】 【女性は知的・靴屋さんで靴を履かせてもらうことが好き・お姫様のように扱われたい・飛行機の操縦が趣味でアクティブ・神経質】と、イメージを言葉にしてみると、この男性も女性も固定されたイメージを持たない。これこそまさに人というものの、ありようなのかも知れないと思えてくる。場面場面で微妙に変化する男と女の関係。そう思うと、なるほどフランス映画の伝統のもとにある作品なのかも知れないと思える。
 宙に浮いた黄色いバックが印象的だ。そのふわふわした感じがいい。